2018年10月24日水曜日

日記

ワナビもすなるブログと言うものを、僕もしてみむとてするなり。
そもそも僕はワナビである。

さて、久方ぶりのブログの更新であるが、皆様いかがお過ごしだろうか。
近頃とんと寒くなってきた。体調などに留意すべし。
そもそも体調管理とは大人であれば出来て当然の基本のキである。

さて、僕はというとたっぷりと体調を崩している。
頭の重さたるや、首やら肩に数匹のコアラがへばりつき、憎たらしく昼寝でもしているのではないかと思うほどである。
そもそもコアラの憎たらしくも愛らしい顔が分からない、という人については、一刻も早く東山動物園の門を叩いて欲しい。入場料は500円である。

さて、「さて~そもそも」で結ぶ構文を意味なく繋げていても話が進まないのだが、もともとこのブログはこのように僕が思い切り言葉を弄すために設けた場であるからして、久々の「言葉弄し欲」の爆発については大目に見るのが、当ブログの優しい読者方が持つべき初歩的技能である。
長い一文だ。どうぞ僕の文章力の寡少さに酔いしれて欲しい。
そもそもがそういうブログであることを初読者は心に留めよ。

さて、なぜコアラを首にへばりつかせてまで(比喩)ブログの更新をしようと思ったかについて、この場で話さずにおいて良いだろうか(反語)
その深い意味を説明するのには骨が折れる。骨粗鬆症と見まごうばかりに折れる。
(当ブログは骨粗鬆症の方を馬鹿にしてはおりません。人類みな兄弟)
だが、せっかくなので聞いて欲しい。コーヒーなどを用意すべし。
つまり!最近文章を書く機会が減ってきて!寂しかった!!からである!!!!
「僕はこんなにも言葉を弄しているぞ!」
「みんなが使う日本語を正しく使っているはずなのに、馬鹿にされている気分になる文章が書けるのだぞ!」
という僕の山の上からの寂しい叫びを、麓でスローライフを満喫する素晴らしく人徳の高い人々に聞いて欲しかったのだ。僕は人徳が低いから。
説明は以上である。
残ったコーヒーは部屋の匂い消しに使ってほしい。
そもそも僕が寂しがりやであるということを、よもや忘れたわけではあるまい。

というわけでこれからは時を見てブログを更新させていただきたいと思う。
内容はない。ワナビなので。

2018年5月1日火曜日

名デン「め氏」レポート



闇である。

闇を食べる会ではない。
名デン「め氏」が開かれたのだ。

*名デンとは
「イベントバーエデン名古屋」の略称。

様々なイベントが開かれる謎のバーである。

ある日、Twitterに流れてきた一枚の画像。



謎である。
全てが謎である。
しかし、どうやら何か美味しい物が食べられるような気がした。

ということで、店長(料理長?)ないしま氏の下へ馳せ参じた。



別の闇である(イカホルモンの墨作り)
罪作りに美味い。



ローストビーフである。
言うまでもないが美味い。

名デン「め氏」とは何か。
それは会費を払えば二日間にわたり美味い物を食べ続けられるイベントである。
ということを知った。



白子である。切ない程の美味さだった。



蒸し牡蠣である。
ないしま氏がテンションが上がって予定になかった牡蠣を買ってきた。

会費は4000円。
一見すると高い(それでも飲み会1回分くらいだが)が、実質、昼・夜・朝・昼・夜の5食(というか常に料理が出てくる)に加え、宿泊可を考えると理解を超えたコスパである。
そして美味い。なによりかにより美味い。
紹介しきれないが、これ以外にも様々に美味い飯に出会えた。

この「め氏」であるが、第二回も開かれるようである。
そして参加者が増えるほどに豪華さが増していくらしいので、もし興味を持った人がいたらぜひ参加してほしい。
僕はすでに参加を考えている。一緒に行こう。

思い返していたらお腹が空いてきたので、レバーペーストの写真でお別れしよう。
これも美味い。

2018年4月25日水曜日

疲れってなんなんだ

疲れのエコシステムが崩壊しがちな皆さんこんにちは。
エコシステムとは言ってみましたが、正しい使い方なのかは分かっていません。
ようは収支決算が下手くそで雪だるま式に溜まる借金がごとく疲れをその身に溜めている我々の話です。

なんか普通に生活してても疲れがたまっていく日々を送りがちですが、健康な人間は日々溢れる活力を感じているらしいですよ。僕は今不公平な思いに胸がいっぱいです。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。

まぁ腐っていてもしょうがないので、疲れとは何かを考えていこうと思います。
敵を知り我が身を知れば百戦危うからずというやつです。
敵はSiriです。Googleアシスタントは味方です。
(当ブログは医師の監修などは一切受けていないので、健康被害などが起こったとしても僕のせいにしないでください。全ては前世のカルマのせいです)

僕らの身体には毎時毎分毎秒、「疲れ」が入ってきます。
入ってきた疲れは、健全な肉体のナイスガイであれば、その日のうちに全て消化・放出されていきます。
しかし、入ってくる疲れの多い生き辛い人間や、疲れの消化・放出が不得手な生き辛い人間だと、疲れを清算出来ません。
ゆえに疲れが翌日も持ち越されると考えられます。

さて、具体的に「疲れ」とはなんでしょうか。
疲れは「肉体の疲れ」「神経(心)の疲れ」に大別されます。

肉体の疲れとは運動などによって身体に乳酸が溜まったり、その人の一日の活動限界に近づいたり超えたりすることで、身体から発せられる危険信号です。
「痛みがなくなると危険」というのはドラえもんの「ヘソリンスタンド」でもみんな学習済みだと思います。知らない人はググってください。
我々は痛みに耐えて行動しようとしがちですが、漫画では工事現場で起こる事故などの危険信号を無視すると大体は土地の守り神のような存在に祟られることになります。
御神酒を備えましょう。

神経(心)の疲れというのは、たぶん精神的ストレスなどにより神経が過剰に興奮して身体に危険信号を送ることで、身体全体が緊急モードになることによる疲れや、興奮状態が続くことによる神経の疲れだと思います。

肉体と神経は密接に関わっており、過剰な肉体の疲れ・緊張は神経に、過剰な神経興奮は肉体にダメージを与えます。

疲れ=危険信号なので、休むのが一番なのですが、休んでも疲れているから困っている訳です。もしくは危険探知機能である神経がバグっているのです。
そもそも疲れが溜まるとバグりやすくなります。バグる前になんとかしましょう。
バグってからも疲れをとるのは有効なので、バグっている人も続きを読みましょう。

疲れがたまると建設的な行動を取る活力も奪われ、結果的に疲れが溜まっていきます。なんとか元気なうちに解決法を探っていく、これしかありませんね。簡単。

続く

→「入ってくる疲れ(26,27日くらいに更新予定)」

2018年4月16日月曜日

ブログが更新されない言い訳

ブログを書くペースが落ちている。
これに対し、世界中の「夜のカフェテラス」ファンが悲しんでいることだろう。
そもそもこのブログの名前が「夜のカフェテラス」であることを把握していない者は不勉強である。勤勉こそが美徳なのだ。

さて、ホモサピエンスの1億人に1人の割合で紛れ込んでいると言われるこのブログの読者が憤るのも無理はない。
ついこないだまで毎日更新を行っていたブログが週1更新になったのだ。日々の生活に刺激が減ってしまったことを陳謝したい。

主な原因を説明しよう。
早寝早起きがしたい→夜にブログを書こうと思った時はすでに眠い→そもそも夜はポケモン実況動画を見ているため時間がない→ゆえに昼にかかなければならない→最近は昼休みを2時間も3時間もとるような貴族生活が出来ていない→ブログが書けない

ためである。
こうして一度ブログを書かなければブログの書き方を忘れるので更に書けない。
今日は久々に言い訳を羅列しながら、ブログを書き進めている次第である。

しかし、どうしたことか。
週1ペースで更新していた時の文章は、
一つ文を書けば、人々を感涙のあまり号泣せしめ、
二つ文を書けば、天を割り地を砕き滝は逆流し、
三つ文を書けば、マクドナルドの割引額がバーガーキング並みになる
と言われた僕の文章がその超自然的な力を失ってしまっている。

今日の文章を読んで駄文と思われた方はそれが原因だと思ってほしい。
前の記事に感動できない方は感性の発達が遅れている。
不勉強である。勤勉こそが美徳だ。
まずはこのブログ「夜のカフェテラス」の記事を全て遡ることから始めて欲しい。

2018年4月10日火曜日

プリミティブ・ミュージックを聴く

僕は音楽が好きだ。
僕は好きだが君はどうだ。

しかし、そんなことは今日はどうでもいい。
どうでもいいとは言ったが、音楽が好きだと我が身に渦巻くこの葛藤に似た思いも分かってもらえるかもしれない。
いや、やはりどうでもいいのかもしれない。

話が進まないので先に進めよう。
僕は音楽が好きなのだ。
好きなのだから音楽を聴く。

ここに豚カツが好きな男がいるとしよう。
いや確かに僕も豚カツが好きだ。大好きだが、これは僕ではない。
とにかく豚カツが好きな彼は豚カツを食べるが、さすがにずっとは食べ続けられない。
つまりはそれと同じことが僕にも起こるのだ。

例え話が下手で伝わらなかったがしれないが、要は音楽疲れである。
複層的な音楽理論と感情に訴えてくる意図の嵐に疲れたのである。

しかし、そんな時でも身体は音楽を求める。
たぶん豚カツ好きも「もう少しでも油物は食べられない。だが豚カツが食べたい」という状態に陥るだろう。きっとそうなのだ。それが摂理というものである。
とりあえず何かを聴きたい……

そんな時に僕が聴くようにしているのがプリミティブな音楽である。
つまりは現代音楽の思想が流入する前の、民族的(トライバル)で原始的(プリミティブ)な音楽である。

最近よく聴くのは、例えばこれである。




またこれや



これなど




こんな音楽を聴いている。

こうした音楽に宿るのは人間の体に流れる本質的な音楽である。
人間から装飾を剥ぎ取った裸体の美しさ。それに近い美しさである。

口伝のかっちりとしないメロディを合唱した時の音程のブレがエモい。
そんな意味で宗教音楽も良いのかもしれない。
しかし教会音楽や中東の音楽は理論的にまとまり過ぎている。
というわけで日本の宗教音楽(?)でお別れしよう。エモい。


2018年4月5日木曜日

バランス感覚

ぼんやりと前にもこの題で記事を書いた気がするのだが、特に気にしない方針を固めた。
恐れずに被せていこう。

研究室に復帰して半年が経過した。
最初の頃はやや休みがちであったが、最近は午前から午後まで通して大学にいることが出来ている。コアタイムを守っているかは些か疑問である。

まぁ問題は予定の立て方である。
基本的に研究室で行っているのは
・実験
・発表の準備
・掃除など維持作業
・学習
に分けられる。

ここで一番やるべきは発表準備であると考えた。
なぜなら期日があるからである。
期日に向け、だいぶ前からだいぶ余裕のある日程を組んだ。

余裕、というのが全ての前提となる。
余裕がなくなると見積もりが大分がばがばになり、予定通りに行動出来ない。
そもそも計画も立てられなくなる。

というわけで、なんとか日程通りに物事をこなしている。
実験はどうしてもしなければならない物以外は後回しだ。
そんな余裕がない。
学習についても発表に関係ないものはしばらくストップである。

ここで「しばらくやらない」と決めたことで、余裕を持ちつつ発表準備に注力が出来ている。
「やらなきゃいけないのにな」と思わなくて済んでいるのは助かる。
そのうち思うかもしれないが、とにかく気にしないことにした。

こうしてなんとか生活を送っている。
だが木曜朝の掃除には3,4週連続で間に合っていない。
なぜ間に合わないのか、それは覚えていないからである。
スケジュール帳に改めて書き直した。
あとは見る習慣があれば良い。ないが。

2018年4月4日水曜日

祝!エデン名古屋開店!と、そうじバー

最近ブログの更新が悪いが、500円でギターを買ってしまったせいである。
許して欲しい。ギターに罪はない。

さて、ついにバーエデン名古屋が開店した!



初日の内容は「そうじバー」であった。

そうじバーとは何か。
このブログに辿り着いた聡い皆様(もしくは潰しきれない暇に押し潰される皆様)においても、その内容を計り知ることは難しいかもしれない。
しかし、自分を卑下しないで欲しい。
なぜなら参加した僕も分かっていないからである。

ただ、一言で表せばとても楽しいバーだった。

4/1 午前10時 烏森。
少し時間を遡れば約1時間前に上前津駅から歩き始めた。
烏森は名駅から近鉄で数駅だが、上前津から歩いてもいけるのである。
ただ1時間かかるので減量中でない皆様は上前津からのバスで向かおう(210円)
(なお、栄発 上前津経由である)

そんなこんなでバス停 松葉町1丁目に辿り着いた。
烏森駅はこの目と鼻の先。
そして地図によればエデン名古屋は烏森駅の真正面のはずだ。
が、見つからない。


すると

ここだった。
いつの間にか開店時刻が10時から11時に変更になっていたが、それは想定のうち。
しかし、想定はしていたが、何をするかを考えるほど用意周到な人間ではない。

運の良いことに店の真横で桜が咲き乱れていた。
ので、それを見ていた。
あぁ……桜が散ってるなぁ……

(40分後)


ないしま氏が颯爽と登場。
さぁそうじバーの始まりだ!!

そうじバー、それはトレジャーハントである。

長らく使われていない(と思われる)店から使える設備を探し出し、店を使える状態に生き返らせる。ついでに2,3階もシェアハウスにするため軽く片付ける。

戸棚を開ければ意図せぬ物が現れる。
上の階からはとめどなく椅子が下されてくる。

掃除をすれば目に見えて綺麗になっていく。
時間の止まっていた空間で少しずつ時計の針が回り出すのが分かるようだった。

ドラえもんの映画『のび太の日本誕生』をご存知だろうか。
ジャイアンが家を作り、スネ夫が食糧を作り、しずかちゃんが花畑を作る。
(のび太は生命を弄んでいた)

そんな「自分たちで世界を作っていっている」という感じが強かった。
「ビル一つ」の開店作業を行える機会なんてそうそうない。

そうじバーとは「非日常的体験」を売るバーだったのかもしれない。
僕はインディ・ジョーンズの気分が味わえ、エデンは人手が借りられる?
上手く出来たWIN-WINの関係である。
上手く使われてしまった。しかし良い経験を買った。

またエデン名古屋で人手が必要な時は呼んで欲しい、と思える体験だったを
(僕は昼過ぎまでしか居られなかったのが残念)

2018年3月30日金曜日

えらてん記事とやりがいと働きたくない僕

東京でバー・学習塾を経営し、ベーシックインカムハウスの立ち上げを行うなど最近Twitterを中心に一門を増やしつつある「えらいてんちょう」ことえらてん氏がこんな記事を書いていた。

みんなやってる?正しい「やりがい搾取」の方法論 

この記事を読んで、なんとなく自分は「やりがい拒絶」をしているのでないかと思った。
「やりがい」という感情で自分を動かすと、他人に言いように使われるような気がしていた。

そうなるとアルバイトは自分の時間を切り売りするように感じてしまう。
もっと言えばそもそも何のために働くか、ということが分からなくなった。

「お金のため」というのは分かるのだが、お金を貰ってどうしたいのかが分からない。
お金があったらしたい事も特にないし、生きるためならば最終的に生活保護という生き方もある。

一方で人のために何かする、というのは嫌いではない。
疲れてなければ好きかもしれない。
それが好きな人たちのためならば、より好きだ。

サークルのためにフライヤーやパンフを作ったり、動画を作ったりすること。
彼女のために部屋の片付けや皿洗いをすること。

どちらも自分の好きなことである。
えらてん氏の記事でも書かれた「好きなことで貢献」、まさに「やりがい」である。

自分の場合、それがだいぶ身内よりで、非常に内向きである。
しかし、もし今後「この会社のために働きたい」「働く事で誰かのためになりたい」という高尚で意識が高そうな感じなったら、働く事もやぶさかではないのかもしれない。

というわけで少しずつ外を見て回りたいと思う。
外の世界が待ってるぜー。


考えてみればこれも貢献かもしれないが、「エデンバー名古屋」のロゴコンテスト(?)に応募してみた。当選はしないかもしれないが、好きに使ってもらいたいものだ。


2018年3月26日月曜日

いやなトリビア


ぶっ疲れて死にそうだったので、タイムラインを見ていたところ、まくるめ氏が「いやなトリビア」ハッシュを始めていた。

せっかくなので全力で乗っかった。


とか。

意外なことにまくるめ氏にリツイートを頂き、あとでフォロワーが増えていることに気が付いた。
(知り合いにブロックされてたことにも気が付いた)

珍しくなんちゃって生物系クラスタらしさが出せたので嬉し嬉し。


この「いやな」トリビアというのは何か、というのを少し考える。

普通トリビアとは「知っても得しない」けれど「話題のネタにはなる」トリビアである。
基本的には聞いて「へー、面白いね」となるような雑学だろうか。
人は無駄な知識でも面白いと思える便利な生き物である。
教養を高めていこう。

さて、これの逆をいけばいいだろう。
つまり「知って損をする」「話題のネタにならない」「面白くない」ような雑学である。

知って損をする、とは知らない方が良かった話だろうか。
僕のツイートの中ではこれかもしれない。


今まではブルドッグを見れば、「可愛い」となっていたのが、「帝王切開」がセットになって想起される。可愛さにマイナス要素が付加される。
人間が悪いよ、人間が。家畜に愛はないので良いですが。

知ったことで、今まで持っていた価値が減少する知識。
つまり「損をする」知識である。

あとは「話題のネタにならない」ですが、下ネタにもならないエグみの強いネタ(カエルの死姦)など。
「面白くない」というのは個人の判断なので難しいですね。

結果、「不快な知識」ということになりますね。
雑にまとめました。生理的嫌悪を引きおこしましょう。

なんというか、別にわざわざ解説しなくても、タイムラインを覗けば、「〇〇って良いよね」という無邪気な呟きに対して、「〇〇って本当は、××なんだけどね」と水を差す呟きが幾らでも見られる気がしてきた。
これからも正しさで楽しそうな人達を殴っていこう。
それが僕らインテリもどきの義務である。

2018年3月22日木曜日

話しやすい対象への考察

半年ほど過ごした研究室に後輩が入ってきた。
厳密には4月からだが、ときどき見かけるようになった感じである。
これがですねー話しやすいんですねー(ムツゴロウ風)

さて、この話しやすさはどこから来るのか。
そして、逆に話しにくい相手は何が原因なのかを考察していきたい。

まず後輩であるが、大体の後輩に対しては話しやすい。
これはおそらく僕の方が立場が上だからのように思える。
と言うと「後輩に対して威張る先輩」という死すべき人間像が浮かんでくるが、僕はこれでも後輩に対して腰が低いつもりだ。
(実際にそう思われているかは分からない。死すべきと思われている可能性も十分にある)

まぁ立場が上というか、ちょっとばかし分野に知っているというか。
良い言い方をすれば「相手に貢献しやすい」とも言える。

逆に先輩やもっと年が上の人はどうか。
先輩の場合は、「反応が分かりやすい」人ほど話しやすい。
何を話せばいいか分かりやすいからであると思う。
これも「貢献」かもしれない。
つまりおばちゃんお姉さんぐらいがちょうどいいのである。
お姉さんは何を言っても若者を可愛がってくれる(仕事を一緒にしない限りは)

さて、僕が話づらい相手を考えていたのだが、やはり怖い人である。
怖い人とは僕を怒る立場の人に相違ない。
やはり「怒られるか否か」が安心感があるかないかにつながり、最終的には話しやすいか否かにつながるように思う。

とにかく怒られるのが苦手だ。
怒られそうな人には全く話しかけられない。
ゆえに自分の上司(担当教官)に中々話しかけられないというヤバい状態が発生する。
いまの担当教官はお姉さんであるので話しやすくて非常に助かっている。
(将来的に上司が出来る予定はない(就労予定がない)のでこのまま逃げ切れ)

そう考えてみると、後輩にはそうそう怒られないだろう。
それに後輩は気を使ってくれる。
気を使ってくれる優しい怒らない人が僕は好きだ。
僕もそういう人達にぼちぼち恩を返していきたい。

なんと春から研究室に来る後輩に向けておすすめのレビュー論文も用意している。
後輩は優しい。優しい人と生きていきたい。そんな2018年春。

2018年3月19日月曜日

ギークハウスのドキュメントを見た話

先日、ザ・ノンフィクションでギークハウスが取り上げられていた。
前回の放送が好評だったようで今回は特別編となる。

前回の放送時はツイッターで流れてくるテレビ画像を見て、「何だこれは」と思っていた僕だったが、それから今回までにphaさんを始め色々と界隈についての話を見てきた。
今回はしっかり録画をして見ることに成功した。

「社会に適合できない」という悩みはあるか。
みんな何となく笑いながらそう口にするが、何となく就活して、働いて、社会になっていく。

phaさんは京大卒業後、仕事に就くが社会に馴染めず退職。その後、仲間を集めてシェアハウスを作った。その後も定職にはつかず色々なことをやりながら、頑張らない生き方をしている。そのシェアハウスに住むのも、どこか社会に馴染めない人々だ。
今回は4年間の軌跡と、漫画家 小林銅蟲が連載を得て、結婚していくまでを追っていた。

僕も割と社会に馴染めない方である。
友人とかサークルとか、そういう繋がりでは振る舞えるが、「責任」というものが嫌いだ。生理的嫌悪に近いものを感じる。
アルバイトが続かないとか、同じようなリクルートスーツを着た就活生の集団を見ると胃が痛くなるとか、そういうのは同じところに起因するのだと思う。

phaさんがシェアハウスを作った理由は色々と述べられていたが、総括すると「人は集まっていれば死ににくい」という事だと思う。
「面白い人には死んでほしくない。だから居場所を作りたい」
phaさんはそんな思いを語っていた。

phaさんが学生時代を過ごした京大熊野寮、ここでの経験がシェアハウス作りに活かされている。
自分が「結構ダメな人間」でも、もしそうなったとしても、それでも居られる場所、受け入れてくれる場所。
京大の「自由」で他人に干渉しすぎない校風がそんな場所を作って居たのかもしれない。

大学生の頃の僕もあまり出来た人間ではなかった。
学業に打ち込まず、バイトに打ち込まず、生活を整えない日々を送って居た。
それでもいくらでも居ていい場所がサークルだった。
割とうちのサークルは変な人間に寛容だったのが良かったのかもしれない。

自分が居ていい場所がないと人はやはり死ぬだろうな、と思う。
孤独に苛まれ、冬の海に飛び込みたくて仕方がなかった事もあったが、何とか生活を立て直すことが出来たのは、やはり居場所があったからだと思っている。

phaさん自身が語るように、これから5年後10年後、ギークハウスがどうなっていくのかは分からない。もしかしたら居場所はなくなってしまうかもしれない。
社会に馴染めない人間の一人として、今後の動向を見てゆきたいと思う。


P.S.
ギークハウスだが、名古屋にも名駅の裏に「ギークハウス名古屋」がある。
以前僕もお邪魔させていただいた事がある。
もし興味がある方は調べてみて欲しい。では。

2018年3月18日日曜日

大島てるのライブに行ってきた話

事故物件、というものがある。
簡単に言うと「人が死んだ」部屋である。
人が死んだ、と言ってもただの病死などは当てはまらない(と思う)

つまり自殺、殺人、事故死または病死であっても発見が遅れ腐敗した場合などを指す。
たとえ霊の存在を信じていない人であってもなんとなく嫌な気がするのではないか。
いわゆる「穢れ」とも言えるかもしれない。

自分が住む家が事故物件かどうかを調べたい時に便利なサイトがある。
それが大島てるが運営する「事故物件サイト 大島てる」である。

早速サイトにアクセスして自宅の近所を見てみる。
すると我が家には何もなかったが、周りには炎マークがちらほら……
この炎マークが「事故物件」を表している。
(なお全ての事故物件が載っているわけではなく、日々更新されている)
(あなたの家が載る日も近い)

さて、名古屋は大須OYSに管理人 大島てるがやってくるという事で足を運んで来た。
大島てるは東大出身後海外に渡り、帰国後不動産の道を歩み始めた。
実際に見るのは初めてだったが、低音ボイスの良い声である。

さて、事故物件というのは嫌でも出来てしまうものだ。
そうして事故物件になった建物をどうするか。
事故物件というと値段の安い物件が多いイメージがある。
しかし、なかなか値段を下げるということも難しいらしい。

なるほど、「家賃というのは一種の選抜になっている」というわけだ。
(明言はされていなかったが)ある部屋の家賃を下げれば、自ずとそこに入居する人の質も下がりやすい。質というのは良くない言い方かもしれないが、少なくとも今まで入らなかった人も入れるようになる。
するとマナーなどで近隣トラブルが起こるかもしれない。
もしかすると……再びそこが事故物件になる、という可能性もあるだろう。

「事故物件に入った人間が再び事故死」という怪談が生まれる理由の一つがここにあるかもしれないと思った。

面白いと思ったのは、逆に家賃が高くなるパターンもある、ということだ。
築年が経った住居で事故死が起こる→リフォームをする、となると他の部屋に比べて設備が最新の部屋が出来上がる。ゆえに家賃が上がってしまう、ということもあるらしい。

大島てる曰く「きちんとリフォームをする所は良心的」である。
なぜなら後から入る人のためになるからである。
悪質なのは「建物の名前を変える」「外装を変える」ケース。
別に住人のためにもならないし、誰も得をしない。
(大家が得をしないのは大島てるサイトの存在ゆえだが)

その他にも大島てるから興味深い話が色々と飛び出す。
大島てるは話が格別に上手い、ということはないように思う。
しかし、満員の客を集め楽しまさせるのは、話のテクニックよりもその内容にみんなが興味を持って集まって来ているからなのだろう。実際、僕も非常に楽しかった。

最後に得になる話を一つ。
新しく入居する際、事故物件の場合は告知義務がある。
あなたが知らずに住んでいるということはないだろう、安心してほしい。

ただ、あなたの部屋以外の部屋での事故に告知義務はない。
本当にあなたの部屋の隣、人が住んでいますか?

2018年3月13日火曜日

生活を手に

「生活」というのが手から離れていっていないだろうか。
生活に必要な物は全てお金で揃う時代である。
普段は働いてお金を稼ぎ、そのお金で食事や衣服を購入する。
(僕は稼いでいないが)

近代社会では分業・専門化が進んでいって、いわゆる「衣食住」から仕事も日常の生活も離れていきがちである。
そうなると僕らは中間の「お金」というものを右から左に流すだけになりがちだ。

そんな生活を続けていくと、「生きる」ということが手から離れていっているように感じることがある。
「生きるため」に働いていると言っているが、本当に生きていくための行為なのか。
そんな疑問が浮かぶ。

という思いもあり、あえて専門に逆らってみることがある。
自分の普段作らないような料理を作ってみる。
自分でちょっとした小物を作ってみる。

最近は破れたジーパンを利用してカバンを作ってみた。
あまり人の目の近くに持っていける出来ではないが、少なくとも物は運べそうだ。

こうして手を動かして「生きる」ことに近い仕事をこなす。
すると少し生きている実感が増すような気がするのだ。

2018年3月12日月曜日

中古本は悪か

最近、ブックオフオンラインのホームページが改善された。
前の非常に使いづらいシステムから、まぁまぁなシステムになった。

さて、Amazonという便利なサイトがある中で、なんでブックオフオンラインを使うかであるが「安い」に尽きると思う。
もちろん品揃えで見ればAmazonの方が遥かに良い(なんでもある)のだが、大きな違いは最低価格にある。
Amazonマーケットでの最低価格は1円である。
しかしこれにプラスして送料がかかる。
いま参考に見た中古の文庫本では257円だった。よって合計258円。

一方ブックオフオンラインでの最低価格は99円(たぶん)
さて、問題の送料であるがブックオフオンラインの場合、1500円以上の購入で送料が無料になる。この送料無料がブックオフオンラインを利用する主な理由である。
アマゾンだと送料が高くなるような大型本も気軽に注文できる。
到着は名古屋の我が家で1週間かからなかった。

安く本をまとめ買い出来てほくほくであるが、ここで一つ疑問が生まれる。

「もしかして僕はいけない事をしているんじゃないか?」

本には著者がいて、その本を売り出す出版社がいて書店がいる。
僕が中古で本を買った時、その誰にもお金が入らない。
(新品の本と中古の本の両方を取り扱う書店もあるが)

ある作家の作品が好きでも、ブックオフで中古価格が下がるのを待って買っていたら、いくら集めても作家にはお金が入らない。
作家の作品の売り上げとしてもカウントされないので、作品の人気が低く見積もられて連載が打ち切られる可能性もある。

最近は漫画村について漫画家が直接に注意喚起などを行っている光景を良く見る。
中古本ならばまだ新品での販売を経由しているが、それすら経由しない違法アップロードによるダメージはあまりにも大きいだろう。

しかし合法であるとはいえ、これほど大きくなった中古本市場が書籍業界に与えるダメージも大きいのではないだろうか。
かつて小型古書店が多かった頃は、欲しい中古本を入手するのは今よりもずっと困難だったはずだ。
しかし時間は流れ、ブックオフのような大型古書店が増え、そしてインターネットで手軽に古書を入手できるようになった。
(今はブックオフも苦しそうだが)

ここで一つ議題を考えてみる。
「古書店が無ければ新品の本の売り上げはあがるか」

・一点目(メリット)
漫画村問題でもよく見る意見としてあるのは「無料で読めるから読むのであって、金を出してまで買わない」というものである。
これは中古本でも同じで「中古で買えるから買う。新品では買わない」という集団が想定される。
しかしこの集団は中古本を買う集団の一部である。
ただの勘だが「8割」くらいじゃないだろうか。
2割くらいの人は書店で本を購入するようになる。

だがその人たちが中古で買っていた本を全て新品で買うようになるだろうか。
書籍にかける費用が今までよりもずっと大きくなるだろうか。
僕はならないと思う。
今まで中古本に使っていた費用で新品の本を買うと考える。
そのため、「2割」の人が中古本に使っていたお金がそのまま新品に回るかもしれない。


・二点目(デメリット)
これも漫画村と共通する問題であるが、「漫画村で初めて存在を知った」という意見である。
ブックオフを歩いていると新刊書店では出会えなかったような本に出会えることが多い。
特に漫画。
漫画は立ち読みしやすい。扱いの荒い子供もよく読む。そのため漫画にはカバーがかけられ中を確認できない。わざわざ店員さんに言って中を確認させてもらっている人なんて見たこともない。

僕もブックオフを通して新しくファンになった作者も多い。
少し古い作品を中古で買って、新作は新品で買い始めることも珍しくない。
もちろん中古でしか買わない集団も存在する。
漫画は星の数ほど(それほどはないが)あるのだし、作者に金が入らなくても構わないならば、安く本を手に入れる合理的な選択だと思う。

こうした本との出会いを新品書店が提供できてないのは事実である。
中が少し読めるようにした漫画も、基本的には新刊本のごく少ない冊数に限られる。
ニッチな漫画はどんどん埋もれていく。
SNSの口コミで売れる漫画も存在するが、それを見て「私たちも驚いた」とか言ってる出版社は自力で売る努力をすべきだと思うが。


とりあえず僕が思いついた大きな点はこの二つである。
1点目のメリットと2点目のデメリット、どちらが大きいと思うだろうか。
少し考えてほしい。

本当は「中が読める漫画は売れないのか」とか「全漫画家タレント化」みたいな話もしたかったのだが、長くなったので今日はここまでにする。

最後になるが「作者を応援するなら書籍を買うべき」とか「違法アップロードされた作品をみんなが読んだら文化が衰退する」という話を最近よく聞く。
「文化が衰退するのではなく、新しいフェーズへ移行する」という話も聞いた。

まぁ少なくとも出版社業界は衰退するだろう。それと文化はまた別の話だ。
ただ、出版社業界が衰退し余裕がなくなれば、これまで以上に実力が突出した人間以外は書籍を出せなくなるだろう。
今は誰でもインターネットに作品を投稿できる時代になった。
それは誰にでもチャンスがあると同時に群雄割拠の時代である。
作家をじっくり育てられる出版社というのがまだ必要なんじゃないかと僕は思う。
いま出版社にその力があるかは分からないが、5年後くらいにはもっと分かりやすくなっているだろう。

2018年3月9日金曜日

スライ・クーパー2

前にスライ・クーパーについて書いたが、ちょうど先日2をクリアした。
というわけで今回は前の記事がなんのことか分からない人には、更に困惑を深める内容となっている。

スライ・クーパーは怪盗ゲーと言いつつもコースゲーだった、ということは前回書いた。
「クラッシュ・バンディクーかよ!」と思った。
ところがスライ・クーパー2はゲームシステムが大きく変わっている。

まず、前作は「コースをこなして鍵を集め、ボスのところにたどり着く」ゲームだったが、今回はステージ上のミッションをこなしてクロック・ヴェルクのパーツを盗み出すのが目的。ちゃんと「怪盗ゲー」として成り立っている!!
(ルパン三世みたいな怪盗である)

前作では一発KO残機制で色々と不満もあったが、今回は体力性残機なしに変更されている。そのため難易度はやや低下。が、テンポは良くなっている。やり直しもし易い。
チェックポイントがやたら多くてストレスが溜まりにくい。

またプレイヤーキャラクターに、前回はサポートに徹していた亀のベントレーとカバのマーレーが追加。今回は各キャラクターの個性を活かしたミッションをこなしていくことになる。
なぜか今作ではマーレーがパワーキャラとなっている。前作では敵キャラから逃げ回るだけだったのに...成長したな...
(なお前作の「凄腕ドライバー」という特技は忘れ去られている)

敵キャラの体力が増加し、クーパーでの基本プレイは戦闘を避け、隠れながら進み、後ろから暗殺、というのも怪盗(?)らしくていい。(アサシンかもしれない)
一方でマーレーなら正面から挑んでも二発でKOでき、知能派のベントレーは睡眠弾と爆弾で進んでいく、というキャラごとの差別化もお見事。
(キャラ性能差がただの劣化キャラを作りがちなだけに上手だと思う)

さて、特に今作で素晴らしいのはストーリーである。
スライ、ベントレー、マーレーの友情が結構描かれていて、中でもベントレーが一人で敵のアジトに仲間を助けに行く物語は熱かった。

また前作ではそれほど知能派な面が見えなかったベントレーだが、今作では複雑(本当に複雑)な怪盗計画のほぼ全てが彼の発案である。
この遠回りで地道な怪盗計画が、作戦を実行してる感を増してくれる。面白い。

エンディングは次作につながりを残していて、さて3ではどうなるのかワクワクである。


おいっ!!



P.S.
実はPS3で1-3作を収録したパックが販売されているそうなので、興味がある人はこの機会にぜひプレイしてみてください(Amazonリンク)





2018年3月5日月曜日

ヘラったメンタルの回復に役に立った方法を紹介する

昨日に続いてメンのヘラ回復にまつわるお話です。
昨日同様にあくまで僕個人の体験談なので、他の人にどんな影響が出るかは分かりません。とりあえず参考までにお読みください。

さて、昨日の通り当時の僕は極度に自信喪失状態にあったわけです。
ゆえに人とコミュニケーションをとりづらい、という若干の対人恐怖などもあったりと、なかなかに面倒な状態だった気がします。
(所属していた音楽サークルはしばらく行くか迷っていましたが、行ってみたら行けた、ので復帰しました。そんなにバンド活動もしてなかったのが良かったかもしれないです)

昨日紹介した本によれば、自信とは「人から愛されている自信」を土台にして、「健康で自分がコントロールできるという自信」「何かをすることが出来る自信」が積みあがっているそうです。
当時はそれら3つともが喪失状態にあったため、まずは休養が必要だったのだろうかなぁと振り返って思います。
実家暮らしだったため天涯孤独というわけでもないですが、家族との関係もなかなか上手くいかずに苦しかった時期になります。自分のコントロールも上手くできておらず(それは昔からでしたが)、何かを出来る自信もそれに伴い喪失、といった感じです。

さて、まぁそこから休学やらなんやらがあったのですが、僕の思い出話は別に面白い部分もそれほどない、強いて言えばアクセルとブレーキを踏み間違えて、車がブロック塀を登りかけた話ぐらいしかないので、実践的な話に移ります。

自分がやっていたのは最近流行りのマインドフルネスのような、瞑想のような...
そんなぼんやりとした何かです。
子供のころからの性分だったのですが、自分は「自分のミスを認める」というのが非常に苦手でした。おそらくなまじっか勉強が出来たせいもあるのでしょう。

それゆえ、これまでの行動で形成されてきた「自分」の中に自分で認められない部分が多かったように思います。
そういう自分の失敗の記憶が時々浮かび上がってきてはメンをヘラさせるため、まずはそういう記憶を思いつく限りにノートに書くことにしました。
いわゆる「客観視」というやつです。

「なんてことはない」と思ってはいたのになかなか消化できなかった思い出も、紙に書きだすことで「なんてことない」を再確認でき、自分の胃へと飲み込んでいけました。
ついでに失敗ではなくても、思い出した昔の記憶もとりあえずメモしておきました。

最初のうちはどんどんと思いついていたのですが、次第にすぐには浮かんでこなくなりました。
このあたりから瞑想のようなものを並行して行っていきました。

僕が行っていたのは昨日も紹介した「数え呼吸法」です。
ただゆっくり呼吸しながら、頭の中で1から100まで数えるだけの簡単なやつです。

これは別に数を数えたいわけではなく、数を数えるという「どうでもいい」作業に集中していくことで、普段頭の中で無意識のうちに現れてくる色々な考えを一時的に止める、というものです。
瞑想の中でも数を数えるという明確な作業があるので簡単な方だとだと思います。

まぁ実際やると、気が付くと別のことを考えています。
それに気が付いてメモしておく、そしてまた数える。
というのを少しずつ続けました。

こうして心を風船のように膨らましていた不安や記憶を少しずつ書き出して消化していった、という感じです。そういう不安や記憶はなかったことには出来ず、消化するしかないのだなと思っています。
ただ、僕は大きな不幸などがあったわけではなく、小さい不安の長年の積み重ねだったので、どうしても消化できない大きな不幸がある方は専門家への相談をおすすめします。

「数え呼吸法」に慣れたら、数を数えず呼吸に集中するだけの「呼吸瞑想」も試してみました。集中する対象が、数を数えるという「作業らしい」ものが、呼吸という普段やっているものに変わったため少し難易度が上がります。

どちらにせよ大切なのは、「自分がいつの間にか別のことを考えている」ということに「気が付く」ということです。
僕らは普段無意識のうちに考え事をしたり悩んだりしています。
まずはそれを「意識下に持ってこよう」というのが目的です。

人は無意識の行動を変えられないが、意識的な行動なら変えられる、というのは心理学的にも言われていることです。(たしか)

「あ、いま自分悩んでるな」とか「あー不安を感じてるなー」とかのように、自分を客観的に見られるようになるのが瞑想の目的だと思ってください。

客観視することでまた少し余裕も生まれてきます。
悩んだり、不安を感じるのは仕方ないことです。まずはそういう反応をする自分を認めましょう。否定すると辛いです。
その上でその不安や悩みへの対処法を考えていくと良いです。楽です。
その時も紙に書いて考えると客観的に見れて良いです。楽です。
こうして自分のコントロール感を増やしていけるといいと思います。
(いわゆる「第二の自信」がつきます)


そろそろまとめます。
僕が行ったのは
・今自分の中に詰まってる不安などを書き出して、消化
・余裕が生まれてきたら、自分が悩みや不安を感じている時に気がつく
・少しずつコントロール感を身に着けていく


と言った感じです。
これだけですが、余裕が結構出てくると思います。
余裕が出てくれば視野も広くなりますし、色々と安定します(曖昧)

また、瞑想すると前頭前野部が発達して感情がコントロールしやすくなる、というようなお話もありますし、一日に5分でもやってみて損はないと思います。

それでは今日はこのくらいで。

2018年3月4日日曜日

メンがヘラっていた時に助けになった本を紹介する

2年ほど前にメンタルがヘラって、1年ほど前までそのヘラが続いていた。
しばらく学校を休んだり、就活のようなものをしてみたりしていたのだが、それ以外は主に本を読んだりゲームをしたりしていた。
その時に読んだ本で「メンタル回復の助けになった」と思っている本を紹介したいと思う。

なお、僕はうつとは診断されなかった(病院にかかっていたら診断されていたかもしれない)し、僕の回復薬となった本が僕以外にも効果があるかは分からない。
あくまで個人的な備忘録だと思った上で参考にして欲しい。


【自衛隊メンタル教官が教えてきた  自信がある人に変わるたった1つの方法】


いきなり胡散臭い本だが、僕もそう思いながら書店で手に取った。
ちょっと読んでみたところ、内容が具体的で納得のいくものだったので購入。

「自分の評価基準が厳しい」「過度に他人に迷惑をかけることに躊躇する」など自信がない人の特徴に当てはまるように感じた。

当時は担当教官に話しかけるまでに1時間かかるなど、「自信を酷く喪失している」という自認もあったので、「そもそも自信とは何か」などが学べてよかった。

自信は「第1、2、3の自信」とい3つに分かれ、3を土台として2.1と積み上がっているものである。第1の自信は「何かを出来る」という自信。第2の自信は「健康で自分をコントールして何かに取り組める」という自信。第3の自信は「人から愛されている」という自信である。と著者は述べている。

当時は全部の自信がないような気がした。

自信喪失のパターンや、自信をつけるための考え方の転換、自信がつくように自分を評価する方法など、実践的な内容が書かれたいたが、自分はそれで回復する以上に自信喪失状態にあったため大きな改善とはならず。しかし内容は的を射ていると感じたため、同著者の他の本を当たることにした。


【うつからの脱出 プチ認知療法で「自信回復作戦」】


一冊目と同じ著者の本。
タイトルにもあるように「認知療法」を中心として書かれている。
そもそも認知療法がどんなものかも知らず読んだが、最初に「認知療法の失敗例」から始まっていて、なんとなく信用したのを覚えている。

自分でも実践出来そうな簡単な認知療法の実例がいくつか紹介されていて、僕は「数え呼吸法(ゆっくり数えながら1から100まで数を数える)」が気に入った。

この本を読んだり、呼吸に気を配っているうちに、自分が否定して見ないようにしてきたダメな部分に少しずつ目を向けていけるようになった気がする。


【だから仏教は面白い!】


ニコニコ動画やツイキャスで「ニー仏(ニート仏教研究者)」として活動する魚川さんの本。
元々ツイッターでもフォローしていたので気になって購入。(ニートだし)
「そもそもブッダの仏教とは何だったのか?」について、対話形式で説明されていてとても分かりやすく面白かった。

仏教の思想、というのがこの時ずいぶんと自分にしっくりきた。
人が持つ感情というのは「感覚情報」を自ら物語にしていることで生まれてくる、というのが面白く、「そうだ!そうだ!」となった。
(本当はもう少し専門用語が出るのだが、そこはさらっとしておく)

つまりは可愛い女の子を見て「好きだ」と思うのは、皮膚や髪やその他さまざまなイメージを自ら「可愛い女の子」という物語にして、そこから好きという感情を作っている。
それは人の「癖」である。
みたいなのが、縁起やらなんやらなのである。


【仏教思想のゼロポイント 「悟り」とはなにか】


仏教の思想に興味を持ったので、同じ魚川さんの著書を読んだ。
この本はほぼ専門書で、なかなか理解するのは難しかった
(今でも完全に理解はしていない)

内容としては「だから仏教は面白い!」をより専門的体系的に書いてある、といった感じだ。

仏教(上座部仏教)の基本である瞑想(やマインドフルネス)についての記述も多く、瞑想に興味を持つ。
ここで「瞑想って数え呼吸法と同じじゃん!!」という事に気がつく。

ここからは瞑想 兼 認知療法として、「自分を見つめ直す」という事を色々と行っていった。その実践法についてはまた別の記事で書きたいと思う。


【しないことリスト】


カリスマニートとなったpha氏の本。
pha氏自身が、「もうこれはしなくてもいいかな」と思った物について書いてある。
前々から僕も「働きたくないなぁ」と思っていたりもしていたのだが、それもあって将来の不安的なものが大きかった。
そもそも自縄自縛、自分で制限をつけて苦しんでいる、とは分かっていたのだが、その「癖」から少し抜けるのには大分時間がかかった。

僕自身がニートを目指す、というわけではなく、多様なライフスタイルがあること、「こういう感じでも生きてるよ」という感じがなんとなく嬉しかった。

pha氏の本は他にも何冊か読んだけど、これが一番好きだった。


【発酵文化人類学】


小倉ヒラクさんの本。
メンタルとか生き方の本とかでは全くないが、自分の専門の「農学・生物学」への興味を再燃させてくれた本。
やっぱり農学って楽しいなー、と思った。
日本各地の不思議な発酵食品についてのみならず、レヴィ・ストレースを引用しながら「文化」というものについて語っていく。
面白かった。



などなどこんな感じの本を通して、僕は「自分を見つめなおしていく」というフェーズに移っていった。
こうした本との出会いがなければ、回復はもう少し遅れていたように思う。

「自分を見つめ直す」事も含めて、また後日実践した諸々については書きたいと思う。

2018年3月3日土曜日

スライ・クーパー


アライグマが闇夜を駆ける。
友の亀とカバとともに、先祖の誇りを取り戻すために...

怪盗スライ・クーパーとはそんなゲームである。

PS2のアクションゲームで開発はサッカーパンチプロダクション。
僕らの好きなノーティドッグやインソムニアックミュージアムと同じSCEワールドワイドスタジオ所属のゲームスタジオである。

主人公はスライ・クーパー、アライグマの青年。
代々義賊の家庭に生まれた彼は幼いころに悪の組織「ディアボリック・ファイヴ」によって父を殺される。
その時、彼の家に伝わる秘伝書も奴らの手に渡ってしまった。

孤児院で少年期を過ごした彼はそこで親友と出会う。
天才ハッカーで頭脳派の亀 ベントレー、運転のプロで弱虫のカバ マーレー。
彼らとともに怪盗団を結成したスライは秘伝書を奪い返すために、ディアボリック・ファイヴに戦いを挑んでいく...


とまぁそんなあらすじである。
ゲームシステムは「怪盗」というよりはコース制のアクションゲームの要素が強い。
(実はより怪盗性の強くなった2を今プレイ中なので、またそれについても書きたい)

体力はない。
この場合、「無敵」or「即死」というのが基本だが、このゲームは後者である。
即死×残機性なので何度もゲームオーバーするが、コース性なのでそんなにデメリットもない。
となると残機性である必要もないような気もしてくるが...

コース制のアクションゲームとしてはアクションのキレが良いのは強み。
コースに散りばめられた暗号文を回収することで、コースごとに新しいアクションを獲得できる。
このアクションは獲得しなくてもストーリークリアが可能だが、獲得するたびにプレイに新しい刺激が加わって良い。
難易度はちょいムズくらい。子供でも上手い子ならクリアできると思う。


このゲームで一番気に入っているのはなんといってもアメコミ風のムービーである。
新ステージに足を踏み入れると、ディアボリックファイヴのメンバーの紹介が始まる。
このメンバー達は今でこそ悪人だが、みんな幼いころは様々な理由で虐げられてきた者ばかりである。バットマンみたい。
彼らの背景をざっと紹介してからステージをプレイし、ステージプレイ後はその土地でバカンスを満喫するスライ達の姿が描かれる。
こういうところもクールで良いのだ。

そして、細かいところだが、ステージ選択画面の周りに、コースをクリアするたびにお土産が増えていく。これがなんとなく楽しい。
ゲームを通した雰囲気作りに一貫性があって、これは良いゲームだと思った。

実はPS3でスライクーパー1,2と日本では未発売の3が入ったパックが売られているそうなので、ぜひ買ってプレイしてみて欲しい。
大人向けではないが、大人のプレイにも十分堪えるゲームだと思う。

2018年3月1日木曜日

またしても目の疲れの話

何回も何回も夕方に頭が重い話をしているが、今日もそんな話だ。
これまでに「たぶん姿勢が悪いせい」→「眼精疲労と首の疲れによる緊張性頭痛」と話が推移してきたが、今回はその眼精疲労についてである。

先日、僕は一つの結論を得た。
というか、ためしてガッテン!というやや怪しい番組を見て思った。

「眼鏡の度数が強すぎるのではないか?」

どうやら「ものがとてもよく見える」のと「目が楽」は別の問題らしい。
(考えてみれば当たり前である)

僕は視力がバカみたいに悪い。
おかげで眼鏡がないとふらふらとしてしまいバカみたいである。

そんなわけで「はっきりと見える」眼鏡を作ってもらって使っている。
だいぶ度数は高い。
実際、「こんなところでどうですか?」と眼鏡屋では度数の確認をされるわけだが、そんな数分で目が疲れるかどうか分かろうはずもない。
もしかするとこの眼鏡の度数、目にとって負担なのでは?
(すでに数年かけているが)

というわけで、思い立ったが吉日。
明日、眼科に行こうと思う。

もしこの頭の重さがなくなるのなら。
僕の活動量は倍になると言っても過言ではない。
僕のアクティブさが低いのに文句を言う人間は、頭の重さを味わって欲しいものだ。

いや、みんなが頭が軽くなればいい。
心優しい僕はそう願うのだ。
特に僕の頭は中身に見合った軽さになるべきだ。切実に。

2018年2月27日火曜日

野生の馬が絶滅していた話

やせいのうーまー やせいのうーまー やせいのうーまーはー

なぜー かーけーてーいくー(合唱:野生の馬


野生を失ってしまった。
さて、今日も野生味あふれる皆さん、いかがお過ごしだろうか。

先日こんなニュースが生物クラスタを賑わせた。


野生の馬はすでに絶滅していたことがDNA分析で判明 | 財経新聞 

読んでみてどうだろうか。
「なんか分かるようで分からない」
と思われたかもしれない。

「野生に生息していた野生種最後のウマだと思われていた馬」が「野生に生息していたが野生種でないウマ」だった、というようなことが書かれているのだが、何となく混乱するような話である。
しかも現在、野生では絶滅し飼育されている、というのだからより紛らわしい。
せっかくなので少し説明をしたいと思う。

まず今回テーマになっているのは「モウコノウマ」である。
モウコノウマは和名で、学名はプルツワルスキーという。

馬といえばサラブレットを想像する人も多いと思う。
あれはいわゆる「家畜馬」であり、人によって「家畜化」された馬である。
「家畜化」とは厳密にいえば、「品種改良をした」ということだ。

まず野生に暮らしていた馬の飼育を始める。
この時点ではまだ「家畜化」はされていない。
その後、他の立派な馬と掛け合わせて立派な仔馬を産ませた。
この「いい馬と掛け合わせていい仔馬を産ませる」ことが品種改良であり、これをもって「家畜化」が行われたという。
これを繰り返していくうちに、馬はもともとの姿と比べて、すっかり人に「都合のいい」姿に変化していく。背が高く、足が速く、健康な馬になり、人になつきやすくなったりもする。

こうやって人によって改良された馬が、「家畜馬」である。
そして人による改良を受けていない馬が「野生種の馬」なのだ。

つまり、記事の記述をかみ砕くと、「改良されてないと思った馬が、実は改良された後に逃げ出した馬だったよー」ということだ。

おそらく保全のためにモウコノウマを飼育していたが、明らかな「改良」は行っていなかったのではないか。たぶん自由に交尾させていたのだと思う。
なので今までは「飼育されている野生種の馬」だったのだ。

しかし、今回の研究結果によって、モウコノウマが野生種ではないことが判明した。
モウコノウマは現存する唯一の野生種(飼育されてはいるが)と考えられていた。
つまり、これをもって「野生種の馬」が絶滅したことになる。

そんなわけで、動物の数が減ったわけでもないのに、「絶滅」が起きた。
これは残念と同時に興味深いことでもあり、生物系クラスタが沸いたという次第だ。

今日は野生の馬に思いを馳せながら筆をおく。
みんなも思いを馳せながら野生の馬を歌ってほしい。
やせいのうまーやせいのうまー

2018年2月26日月曜日

早寝早起きをするための「仕方ない」思考

名古屋を覆っていた「今にも死にそうな寒さ」は心なしか和らぎ、「しばらくしたら死にそうな寒さ」くらいになってきた。
布団に包まりがちの皆様においては、いかがお過ごしだろうか。

最近、なんとなく自分の中で早寝早起きがマイブームになっている。
考えてみると、人は小学校の頃から中学高校大学に至るまで「早寝早起き」を標語にしているような気がする。
そして標語にしている割には、年を取るにつれて早寝早起きを達成するのが難しくなっていく。
そして会社員などに運よく就職できた者から再び会社のリズムに合わせた早寝早起き生活に戻っていくのである。

ただ、人のちょうどいい活動時間帯、というのは個人差がある。
朝がどうしても無理だが、深夜帯はばりばり働けるぜ!、という人は自分の無理のない時間帯に活動すればいいと思う。
ただ、一応自分も体内時計を研究している身であるため、「朝起きて夜寝る生活が体にいいですよ」ということは言っておかなければならない。
昼夜逆転を続けていると生活習慣病(糖尿病、肥満、心不全)にかかるリスクが上がるらしい。まぁ気を付けてほしい。メンもヘラりやすい。

さて、それで僕がなぜ早寝早起きをしたいかであるが、よもや健康のためと思ってくれるな。僕の中に流れるパンクスの血は、そんな甘っちょろい理由で早寝早起きすることを許しはしない。
以下に早寝早起きを目指す理由を羅列する。

・同じ睡眠時間でも早く寝た方が疲れが取れる(気がする)
(プラシーボかもしれないが、体をメンテナンスする成長ホルモンは22時~0時ごろに多いらしいから、本当かもしれない)

・14時を過ぎると集中力が尋常じゃなく下がる。頭を使う(割りに大好きと言い難い)作業は午前でないと手につかない。

・研究室から早く帰りたい。
(コアタイムは10-17時だが、先に帰るのは周りの目が気になる。気にする必要はないのだが、何となくストレスであるため、周りより早く来ることで早く帰る時の心理的ストレスを減らしたい)

・夜になるとメンタルがヘラる
(おそらく夜になると副交感神経が優位になるため、自己防衛反応からすべてを破壊したい厨二的衝動とニヒリズムがマッハ)

などなどである。
他にもあるが、要は「早寝早起きの方が(僕は)全体的に生活のストレスが低い」という結論に至ったためである。

だが、この早寝早起きというのが難しい。
ほんの少しのことで計画が崩れがちである。

布団に入ってスマートホンをいじっていると、そろそろ寝なきゃなーと思いながら1,2時間はすぐに経ってしまうし、朝の布団ほど気持ちの良いものはないのである。

こうした問題への対処であるが、僕は「仕方がない」と思うようにしている。
タイトルにもビジネス新書風に『「仕方ない」思考』というしょうもない表題が付けてある。

どういうことかというと、
「朝起きられない→僕は意思が弱い→樹海へ行こう」
ではなく、
「朝起きれない→まぁ仕方ないよなー」
と思うようにする、ということである。
潔い諦め思考だ。

だって朝の布団は気持ちいいし、タイマーで目覚めても、またすぐに寝てしまうのは仕方ないではないか。それを責めるのは人間生理を責めることだし不毛である。僕らの体はそうできているのだ。進化を恨め(創造論者は神を恨め)

だが、このままでは早寝早起きが出来ない。
そのため、なんとか頑張らなくても良い方法を試行錯誤しているところである。

≪傾向と対策≫

・夜にスマホをいじって眠れない
布団の中でスマホをやめられないのは仕方がないことである。
なぜなら横になっていると、一般的に人のやる気はだいぶ減る。
たぶん体が「休息」状態、副交感神経寄りになるため、気合を入れることが難しくなる。
仕方がないので充電器を机の上に移し、23時になったらスマホをそちらに移すことにした。

・朝起きて目覚ましを止めてまた寝てしまう
目覚めても布団の中でゆっくりしたら寝てしまうのは仕方がないことである。
だって気持ちがいいもん。
この問題は上の問題の対処で一緒に解決した。
布団からとりあえず出ることには成功したのである。しかし...

・机の上の目覚ましを止めた後にまた布団に戻ってしまう。
冬場は寒い。ゆえに布団に戻る。
これは真理であり、仕方がないことである。
対策として寝る時の衣服を厚めにして靴下も履いて寝ている。


以上が仕方がない現象になんとか立ち向かう僕の雄姿である。

「いや、普通に起きろよ」
と言われるかもしれないが、それが出来たら苦労はしない。単位も落とさない。
だが、少なくとも僕の場合はストレスレスな早寝早起きに少しずつ近づいている。

もし早寝早起きをしたいが出来ない、という方がいたら、樹海に行く前に「まぁ仕方ないよなー」とつぶやいてほしい。日々ツイートしてほしい。
その上で少しずつ早寝早起きに近づいて行って欲しい。

上に示した対策は「僕がストレスを感じない」方法である。
人によってはストレスを感じるかもしれない。
ちょうど良さげな落としどころを見つけていこう。ライフをハックだ。

一朝一夕で早寝早起きはならず!!
一朝一夕で早寝早起きできるあなたは素晴らしい!!
僕に朝食を作って!!!

2018年2月22日木曜日

怖い話の楽しみ方

世の中にはいろいろと怖いものがある。
直近では研究室の全員に参加が求められている卒業論文発表練習会をすっぽかしたのに気が付いたのが一番怖かった。ごめんなさい。

まぁ交通事故だの通り魔だの怖いものが多い中で、ついつい触れたくなってしまうものもある。
例えば僕は幽霊が怖い。
幽霊は存在すると思っているし、怖い話を聞くと眠れなくなったりする。
(科学的な存在はしないかもしれない)

しかし、どうしても好奇心によってついつい怪談を聞いたりしてしまう。
ただ、驚かせる系は怖い上に嫌いなので、お化け屋敷やホラー映画は苦手だ。

怪談は(語り手にもよるのだろうが)話自体が面白い。
普段自分が触れないような境界の向こうの話、というのは不思議でどこか神秘的ですらある。

そういえば、こないだ初めて怪談を聞きにいってきた。
「事故物件住みます芸人」を自称し、自殺や他殺の起こった部屋を渡り歩く松原タニシさんのトークライブである。
芸人さんということもあり、笑いどころも多く、それでいてじんわりと怖い話を幾つもして頂いた。

さて、こうした怪談、「怖い話」というのは二度楽しめると思っている。
まず話自体が面白く興味深い。
これが一つ目。

もう一つは自分の変化である。
普段人は外からの刺激によって少しずつ変化をしているのだが、それを意識することは結構少ないように思う。

しかし、怪談を聞いたとき、人は嫌でも自分の変化に気が付くこととなる。
(僕は怖がりなので特に)
普段は何も感じないところに何かの存在を感じる。
賑やかな街の隙間の静寂を感じる。
風が肌を撫でるのを感じる。
普段意識に上らない小さな変化を感じる。

そしてシャンプーをしている時に視線を感じるのである。
ぜひ読んでいる方も後ろから向けられている視線に早く気づいてあげて欲しい。

P.S.
「科学的な存在」というのは、「科学的な手法によって存在が確認できるもの」が「存在する」となる、科学的な定義によるものである。
おそらく幽霊というのは存在の科学的な証明が出来ないだろうし、将来的にされることもないと思う。
だから科学的に幽霊は存在しないのだが、それでも幽霊の存在を信ずるのは、僕の非科学的な部分への信仰であるし、また、様々な事象の複合が幽霊を存在たらしめることもあると思っているからである。

2018年2月21日水曜日

眠気スパイラル

僕は眠気に弱い。
なんというか眠くなってくると、何も手につかなくなる。
「根性がない」と言われればそれまでなのだが、何より睡眠を優先させてしまう傾向がある。

テスト前などに「眠いけど勉強しなくちゃ…」となった時、ちゃんと勉強出来た試しがない。
何かと理由をつけ(一夜漬けが本当の勉学と言えるだろうか、健康を損ねてまで単位という虚像を得ることになんの意味があるだろうか、etc,,,)、早々と寝てしまう。
そういう時に限っていつもより早く寝てしまうことすらある気がする。
(たっぷり寝て頭を働かせよう、などと考えるのだ)

かと思えば、本やらゲームやらアニメやらに熱中して日を越えて夜更かしをする。
こういう時は不思議と眠気をそれほど感じない。
やはりやる気と眠気には中々に深い関係性があるようだ。

そうして「目下の好きな事」に睡眠時間を削られると、「嫌いではないが多少気合がいる事」へ大きなダメージが加わることになる。
夜更かしした次の日など、朝に目覚められるはずもない。
大体、睡眠不足の朝に起きるにはいつも以上に強い気合いが必要なのだ。
しかし、睡眠不足の状態では頭から気合いというものがすっぽりと抜け落ちている。
負の相乗効果により、朝から諸々の用事に合わせて行動できるはずもない。

昼は昼で頭が働かず、しかも眠気に襲われ、首はししおどしの如く揺れ動く。
そうして一日にこなすべき諸々がこなせなかった結果、ストレスを溜める。
ストレスを発散しようとゲームやらアニメやらに熱中する。
すると不思議と寝るのが遅くなる。

こと大学生においては睡眠喪失スパイラルに陥りやすい。
睡眠不足と自己嫌悪的ストレスは思考能力を低下させ、スパイラルから抜け出すのは困難を極めるのである。
(また夜方向への生活時間のシフトは医学的にも心を病みやすいらしい)

「朝に頑張って起きる」というのがスパイラルからの抜け方であるが、それが出来れば全国数十万(?)の大学生は苦労しないのだ。
どうしても行かなければならない予定を朝に入れる、という手もあるが、下手をするとヤバい事になる。そして目覚められたとしても、その予定への殺意が凄い事になる。気をつけて欲しい。

という文章を書いている僕は睡眠不足であるので、ここで筆を置いて布団にダイブしたい。

2018年2月19日月曜日

はじめての将棋中継観覧

藤井五段が朝日の将棋大会で優勝された。
これによって六段昇格が決まったらしく、五段だった時期は二十日もなかったそうな。
新星の活躍は喜ばしいものである。

僕は将棋が指せる訳ではないのだが、ふと藤井五段(当時)の棋戦中継を見てみようとAbemaTVを開いたら、そのまま2時間丸々決勝戦を見てしまった。

一手ごとに解説役の棋士の方が詳しく説明をしてくれるので、半可者の僕でも楽しめる。

決勝戦は藤井五段が終始攻めであったが、それでいて守りは固く堅実であった。

序盤は攻めの姿勢を見せつつ、お互いに陣形を整えていく。
下手に攻め込めば逆襲を受けるし、かと言って攻める準備をしなければ、相手は悠々と攻撃の手を進めてくる。

プロの対局を見るのは初めてだったが、「攻守のバランス」というのを強く感じた。
お互いに僅かでも隙を見せれば斬りかかられるような、そんな緊張感が伝わってきて、見ているこっちも自然と背筋が伸びる。
(それは心持ちの話で、実際は布団に包まりながら見ていた)

お互いに隙を見せぬように立ち回るのだが、先手の藤井五段が先に切りかかっていく。
後手の広瀬八段はその切先を交わしながら、反撃の楔を打ち込んでいく。
しかし、その反撃の手に固すぎる手で返す藤井五段。

日本中から注目され、果てしないプレッシャーがかかる中での試合とは思えない落ち着いた手で、反撃の芽を先に潰しておいたかと思えば、相手の刃が近づくのに臆せずに斬りかかり続ける。
そんな度胸溢れる指し筋で、見事藤井五段が勝利を収めた。
(僕も布団の中で歓声をあげた)

あまりにも将棋中継が面白かったので、AbemaTVに登録しようか迷っているところである。
もし「将棋のルールは知っているけど、試合はちょっと」という人がいたら、ぜひ将棋中継を見て貰いたい。解説の棋士の方への好みもあると思うが、若い人の方が軽妙で良いかもしれない。


P.S.
久しぶりに小学校からの友達と将棋を指してみたが、攻め急いだせいで終盤はずっと逃げ惑っていた。バランスが難しい。

2018年2月18日日曜日

昨日見た夢の話

電車が走っている。
僕は電車に乗っている。
何か理由は分からないが、早く家に帰りたかった。
あまり遅くなると家族も心配する、そんな気がした。

ふと窓の外を見ると家々が立ち並んでいるのが見える。

おかしい。

僕は地下鉄に乗ったはずだ。
僕の家には地下鉄でしか帰れない。

しかし気がつくと電車は地上を走っている。
なんだか前もこんな事があった気がする。

ここはどこなんだろう。どこで間違えた…いや、とにかく降りなければ。
そう思って次の駅で電車を降りた。
路線図を見てみるも、皆目見当もつかない。
少なくとも最寄駅は看板のどこにも見当たらなかった。

仕方がない、誰かに聞こう。
駅員室に向かう。
改札の横の駅員室にはセーラー服を着た二人の女子高生が立っていた。
どうやらこの駅の駅員は女子高生らしい。

ここはどこなのか。何線に乗ってしまったのか。
色々と聞いてみるが彼女たちの返答は要領を得ない。
しかし自宅の最寄駅の名前を出すと、二人は急に笑い出した。
二人によればこの路線では僕の家には帰れないらしい。
どこで間違えたのか分からないが帰れないらしいのだ。
「道路を真っ直ぐ行くと地下鉄の入口がある」らしい。
そこからは一本だと教わった。
僕は礼を言って見知らぬ駅を去る。

真っ直ぐ進んでいたはずだが、気がつくとどこかの学校の中にいた。
建物の中ではない。敷地内だ。
それでも真っ直ぐ進み続ける。
早く帰りたい。

すると、ここの生徒たちなのだろう。
制服を着た若い男女が壁際によって何やら騒いでいる。
彼らの見る方向は僕が進むべき方向で、自然と僕もそちらを向く。
女装の列だ。
女装をした男子学生が列になってこちらへ歩いてくる。
それを見て壁際の学生達が盛り上がる。
列の最後から、がたいの良い男が(女装して)堂々と歩いてくる。
学生達は口々に「本物、本物」と叫んで彼を迎え入れる。

僕は彼らを尻目に先に進んだ。
途中で不良風の学生に捕まりそうになったが、振り切って逃げた。
学校の門が見える。
ようやく出られそうだ。

そこは古い町だった。
町は夕方で古びた家々の間を自転車が走って行く。
一体地下鉄の入口はどこにあるんだろう。

団地の周りにいた主婦に声をかける。
訝しげな主婦たちに地下鉄の場所を聞いたが、「越してきたばかり」と言って教えてもらえなかった。

公園に行くと、自転車に乗った小学生がやってきた。
「地下鉄の入口だろ、あれはゴミ屋敷の中にあるんだぜ」
彼に案内してもらい、ゴミ屋敷を目指すことになった。
公園の周りにはパトカーが停まっていて、警官が聞き込みをしている。
「パズル事件の話が出来たらいいんだけど」
少年はそう言って残念そうにしていた。


ここから僕はゴミ屋敷の中を探検することになったのだが、そこはちょっとばかりホラーで思い出したくないのでここで筆を置く。
夕焼けの町は綺麗でとても恐ろしかった。
子供の頃に歩いた夕暮れの町に似ていた。
ちょっと路地に入ったりしたら、もう戻ってこれないような気がした。
そんな夕暮れ町に似ていた。


2018年2月15日木曜日

修論発表会

今日は同期の修論発表・審査会だった。
残念ながら(?)僕が修論を書けるのはもう数年を要する。

守秘義務の誓約書にサインをしたので研究内容については言及できない。
もしバラしてしまったら、僕の体は実験に使われてしまう。
たぶんそういう誓約書なのだ。

これからジャーナル投稿に向けてまとめられていくデータだ。
ジャーナル投稿しなければ研究成果が認められない。
いつでも研究を他人に取られる危険があるのだ。

だが、審査会の様子は紹介出来るのでしてみよう。

まず修論の内容を発表する。これが10分である。
「なるほど大学院生ともなると10分間で研究を紹介出来るのか」
と思われるだろうが、それが出来ないから、僕らも研究内容を理解出来ない。

それでも念入りに準備はしてきているから、背景から実験内容、結論までを早足で説明する。しかし、やはり僕らはあまり準備してきていない(事前に要旨は配られているのだが)ので、なかなか頭に入ってこない。

だが、教員にもなるとさすがである。
というか、特に教員陣は「審査」を行う必要があるからちゃんと理解しなくてはならない。
こうして質問パートに突入する。
発表時間は10分だったが、この質問パートは15分もある。

教授を中心に4名の教員が質問をしていく。
自分の研究室の学生に質問をすることが多いのだが、どちらかと言えば同じ研究室の教員から鋭い質問が飛んでくる。

いつも不思議に思うのだが、そんな根源的な質問なら、もっと前に言ってくれれば良いのではないか。わざわざ隠し持ってなくてもいい気がしてならない。

特に博士課程後期に進む学生にはキツい質問が飛んでくる。
前に立つとやはり上がるのか、質問に対する答えが質問に対する答えになっていない。

自分がいつかここに立つかどうか分からないが、まぁその時までには堂々と発表出来るだろう。甘い予想をして同期を送り出した。

2018年2月14日水曜日

ハンターは物陰に

何かに追われている気がしないか。
大学生(僕はもう違うけど)にはよくあることかもしれない。


受験を終えて大学に入ったものの、時々心に訪れる陰がある。

これで本当に良かったのだろうか。

かと言って大学を中退してがむしゃらに突き進むような夢もない。
テレビをつければいつの間にか年下になった高校球児が必死に試合をしている。
ちょっと前までずっと大人に見えた存在が年下になった事にくらくらする。

別に何か不満があるわけでもない。
バイトはキツくないし、講義も退屈過ぎるとは言わない。単位もそれなりにとっている。
サークルは楽しいし、たまに飲む友達もいる。

だけど、何かが足りない気がする。
このまま大学生活を終えて就活をして、そして就職していくのだ。
別に何か不満があるわけでもない。

ただ、何かに追われている気がする。
それは焦燥感であり、知らぬ間に何かを失っていく恐ろしさだった。
自分が今決めた選択肢はこれで正解だろうか。
もしかしたら今しか出来ないことがあるんじゃないか。

ふとSNSを見ると中学の頃の友達が出てくる。
子供を抱いて笑顔でバーベキューなんかしている。
勉強が出来るやつじゃなかった。どこかで馬鹿にしていたかもしれない。
ただそこにいる友達はずっと大人に見えた。

別に何か不満があるわけでもない。
悩みだとかなんだとか、そんな事を言うつもりもない。
だってそれはあまりにも贅沢というものではないか。

そういえば同じ学科のあいつ。
最近あんまり絡んでないけど、よく図書館にいるらしい。
こないだ研究室にまで見学に行って教授と話したりしたらしい。
どうも頑張っちゃってさ。

後ろをふいに振り向く。
誰もいない。
ただ一瞬そこに自分の顔が見えた気がした。

2018年2月13日火曜日

辞書のようなもの

[名]ジャネイロ(じゃねいろ)
ブログを書いている人。
愚にもつかない文章をこねくり回しては読む人の貴重な時間を消費させ、日本経済に打撃を与えようと画策している。

[名]ジャネ色(じゃねいろ)
ジャネイロの色。
冬場は茶。夏場は白。秋服はあまり持っていない。

[名]ジャ音色(じゃねいろ)
ジャネイロの音色。主にマンドリンから発せられる。
音色よりも音量に気を取られているのであまり綺麗な音ではない。
(類 : 邪音色)

[名]ジャイロ(じゃいろ)
松坂大輔が投げると言われる球。
ダルビッシュ曰く存在しない。

[名]ジャイ口(じゃいぐち)
剛田武の口。武は料理が下手だが味覚が壊れているかは不明。

[名]シャケ口(しゃけぐち)
シャケ(=サケ)の口。曲がっている。

[名]シャケ買い(しゃけがい)
サーモンの状態だけを見て寿司皿を買うこと。
マグロもよく見た方がいい。黒い場合は古い。

[名]シャケ喰い(しゃけぐい)
回転寿司でサーモンばかり食べる人。
サーモン、焼きサーモン、サーモンサラダ乗せをループする。

[名]ヤケ喰い(やけぐい)
普段に比べてやけに食べる時。

[名]ヤケ杭(やけくい)
焼けた杭。出る杭は打たれるが、出すぎると見せしめに焼かれる。

[名]焼けにくい(やけにくい)
全然火が通らない状態。バーベキューの玉ねぎ。
(用法 : 隣の杭は焼けにくい杭だ)

[名]焼けやすい(やけやすい)
すぐに焦げる状態。バーベキューの玉ねぎの表面。

[名]溶けやすい(とけやすい)
バーベキューのホルモン。

[名]時計安い(とけいやすい)
フリーマーケットの時計は安い。
特に粗品などで貰える懐中電灯付きの時計は100円で買える。

[名]時計水(とけいすい)
体内時計を変えられるドリンク。
22世紀のマツモトキヨシで買える。
僕は三連休で最近生活リズムが乱れたので夜用時計水を飲んで寝ます。

2018年2月12日月曜日

進化の話をしよう

先日に続き生物学の話をしたいと思う。
特に「進化」というテーマでは主義主張に個人差があるが、まぁ本流からはそんなに離れてないと思うので、お付き合い願いたい。

さて「進化」とはなんだろうか。
簡単にいうと「ある生き物」と「その子孫」で特徴が変わっていた。
この「変化」が「進化」である。
昔は宗教的な背景もあり、「進化=進歩」と考えられていた時代もあるが、現在では「進化=変化」である。

ではついでに「退化」はどうか。
「退化も進化である」と聞いたことがある人もいるかもしれない。
「退化」とは「体の一部分がなくなる変化」である。
つまり進化の一つだ。
ではなぜ変化が起こるのだろうか。

僕とあなたは違う。
そこら辺で見かけるハトも二匹をよく見比べると色々と違いがある。
こういう違いは何が原因だろうか。

生物の体の設計図が「DNA」である。
僕らの体はこの設計図に基づいて作られている。
僕らの両親もそれぞれ別の設計図から出来ていて、二人の設計図から僕らの設計図が作られる。だから僕らは両親に半分くらいずつ似ている。

僕らの体を作る設計図は実は変化する。
一番影響が大きいのは、親から設計図をもらう時だ。
この時、設計図の書き間違いが起こることがある。
この書き間違いが「突然変異」である。

この突然変異は全然意味がないこともあるし、ものすごく大きな変化になることもある。
例えば一つの突然変異で花の色が赤から白になったりする。

こんな風に書き間違いがたくさん起こるから、親と子供は少し違うし、親と孫はもっと違うし、親と孫の孫の孫はもっともっともっと違うわけだ。

こうして「変化」が起こるのだが、実はそれはなかなか残らない。
例えば突然変異によって寿命がとても短くなるかもしれない。
子供を作る前に死んでしまったら、「寿命が短い」という「変化」はそこで終わりだ。
急に真っ青なハトが生まれるかもしれない。
でも「真っ青なハト」がハト界で全然モテなかったら、子供を作れない。
「真っ青」という変化もここまでのようだ。

つまり「変化」は基本的に邪魔をしてくる。
でもその中で邪魔をしない変化もある。
「真っ青なハト」が普通のハトと同じくらいモテるなら、真っ青なハトの子供が産まれて、孫もきっと真っ青だろう(実はハトは色が見分けられないからたぶんそうなる)
でもそんなに数は増えない。
せいぜい「青ハト一族」が細々と暮らしていくぐらいだ。

さて「邪魔をする変化」「邪魔をしない変化」を考えた。
最後は「役に立つ変化」だ。
もしかすると「真っ青なハト」が無茶苦茶にモテモテになるかもしれない。
普通のハトのオスが1匹のメスとしか子供を作れないのに、青ハトはモテモテだから10匹のメスと子供が残せるとしよう。
そうしたら、普通のハトの10倍、青ハトの子供が増えることになる。
その子供も青かったら、どんどん青いハトは増えて、今度は普通のハトは子供すら作れなくなるかもしれない。
数年後、その場所には青いハトしかいなくなってしまうだろう。

これが「残る変化」であり、「ザ・進化」という進化だ。

「メスにモテる」以外でも、「エサがいっぱい手に入る」とか「寒さに強い」とか、「子供をたくさん残せる変化」であれば、それは「残る変化」になるのだ。

ちょっと長くなったので今日はここまでにしておく。
「進化」は僕が一番好きなテーマなので、また簡単に説明していきたい。

2018年2月8日木曜日

生物時計の話をしよう

ここ数日と昔の話ばかりしていてジジイだと思われそうなので、せっかくだし今やっている研究の話をする。

2017年のノーベル医学生理学賞に選ばれた科学者をご存知だろうか。
彼らの功績、それは「時計遺伝子の発見」である。

僕らは概日リズム(サーカディアンリズム)というものに従って生きている。
難しい言葉に聞こえるが、つまり「朝に起きて、夜に寝る」というようなリズムである。
暗闇の中で生活したとしても、生活リズムは約一日に保たれる。
そのため、生物は光に頼らなくても約一日のリズムを体の中で「測っている」ことが分かる。体の中に時計があるのである。

この「約一日」というのを英語で「サーカディアン・リズム」、日本語では概そ(おおよそ)を用いて「概日リズム」と呼んでいるのである。
そして体の中で一日の長さを測っている時計を「生物時計」と呼ぶのだ。

ある研究者がハエを飼育していた。
ハエは飼いやすいし、すぐに卵を生むので遺伝の研究にはよく用いられる。
何世代もハエを飼育していくと、突然変異を起こす個体がちらほら出てくる。

ハエにもリズムがある、というと不思議に思われるかもしれないが、ハエも夜にはあまり運動をしなくなる。これが僕らの「睡眠」に当たるとする。

さて、ハエも真っ暗な場所で飼育すると、人間などと同じように約一日のリズムで生活をする。ところが、飼育していたハエの中に、そのリズムがめちゃくちゃになっている個体がいた。

そのハエを育てて増やし、生活リズムがめちゃくちゃなハエの系統を作った。
まるで大学生のようである。

ここでさっき言った話を思い出して欲しい。
「生物は体の中に時計を持っている」と言ったが、では何がその時計として働いているかを調べるにはどうすればよいだろうか?
そう、リズムがめちゃくちゃなハエを調べ、「何が壊れているか」を調べれば良い。
その壊れているものが、「時計の部品」なのだ。
(こうやって突然変異個体から原因の遺伝子を探す方法をフォワード・ジェネティクスという)

そうして生活リズムがめちゃくちゃなハエを調べた結果、一つの遺伝子が壊れていることが発見された。このハエがperiod(期間)と呼ばれていたため、この遺伝子をPeriod(Per)と呼ぶことにした。
この遺伝子を発見した研究者が今回のノーベル賞受賞者である。


さて、今では更に幾つか遺伝子が見つかり「根幹」の部分が明らかになっている。
哺乳類ではPER(ピリオド)、CRY(クリプトクローム)、CLOCK(クロック)、BMAL1(ビーマルワン)の四つが根幹をなしている。

BMAL1とCLOCKが増える、量が増えてくるとPERとCRYが遅れて増える。
PERとCRYはBMAL1とCLOCKが増えるのを止める。
するとBMAL1とCLOCKの量が減るのでPERとCRYも増えなくなる。
するとまたBMAL1とCLOCKが増え始める。

このループが約24時間なのだ。
それぞれのタンパク質は他の色々なタンパク質が増えるのを助けたり邪魔したりする。
これによって体全体が24時間周期で変動しているのである。

僕の研究は詳しくは言えない(?)が、このBMAL1の機能について調べている。
というか調べていく予定だ。調べられたらいいなぁ……

また時計の話で面白い続報があれば紹介するかもしれない。
続報を待て!

2018年2月7日水曜日

本との出会い(幼少編 後編)

怪談ブームで多くの怪談本が出たと前回言った。
その中でも小学生たちが揃って読んでいたのが「学校の怪談シリーズ」である。
学校の怪談のシリーズを名乗る本の中に異色の存在があった。

ハニ太郎シリーズである。
どこが怪談なのかは全く分からないが、ナンセンスと下品を極めたような漫画である。

主人公の家に突如やってきたはにわ。
傲慢なはにわの機嫌を損ねるたびに、はにわビームでこんにゃくにされる家族。
なぜかコンビニでバイトして廃棄の弁当を取り合う二宮金次郎。
説明していて意味の分からなさに頭が痛くなるが、どういうわけかこの漫画が図書館に全館揃っていたのである。

つまりは僕の非教育漫画へのスタートラインはハニ太郎なのである。
大いにスタートダッシュを間違えた気がしてならない。
フライングに近い。反則である。

まぁそんなわけで漫画へのスタートを切ってみると、実にこの漫画というやつが面白い。
区の図書館には寄付なのんか何なのか、いくらか少年漫画少女漫画がならんでいた。
こうなると片っ端から読む以外はない。

とりあえず『落第忍者 乱太郎』を読み(アニメでは『忍たま乱太郎』である。落第は使えないらしい)、『ちびまる子ちゃん』を読み、『らんま1/2』を読み、と若干世代が上の漫画を読み漁ることとなった。この辺りから既にジェネレーションに断層が生まれ始めていた。

それでもいわゆる『ジャンプ』などの雑誌は中学生が読む漫画と心得ていたので、読むことはなかった。銭湯で風呂上りに瓶チェリオを飲みながら読む程度である。
隠れながら『いちご100%』を読んでいた。

その他はみんなと同じように『コロコロコミック』で『コロッケ』や『でんじゃらすじーさん』を読んでいく。
前に紹介したゲーム『ジャックxダクスター』もコロコロで漫画が連載していたのだが、多分知っている人はいない気がする。割と面白かった。

ここまで書いて、「これは漫画との出会いではないのか?」と思ったので、当時好きだった小説について語りたい。

『ハリー・ポッター』はちょうど時期がかぶっていたので全部読んだ。
『ダレン・シャン』『デルトラクエスト』も読んではいたが、好きだった女の子が読んでいたから読んでいただけで、別にそんなに好きというわけでもなかった。
そういった系列では『バーティミアス』が一番好きだった。映画化して欲しい(どうやら話はあったが実現しなかった模様)

その他に『怪人二十面相』『怪盗ルパン』『ずっこけ三人組』『シャーロック・ホームズ』など図書室の定番本はとりあえず読んだ。
あと、学校の図書室にあった数少ない漫画として『はだしのゲン』も読んだ。

鬼太郎が変な薬を打たれて大海獣になる漫画?も記憶に残っている。
そのシリーズで、人をさらって魂を抜いて、ひとだまの天ぷらを作るレストランの話が好きだった。

僕が通っていた公文式にも児童書が幾らかおいてあり、そこに『西遊記』『ながいながいペンギンの話』や『ちびっこ吸血鬼』があった。吸血鬼の妹が可愛くて大好きだったのを覚えている。

まだまだ語り足りないのだが、書ききれないので、ここで筆をおく。
また、思い出したり読み返したりしたときは何か記事として書きたいと思う。


成長した今、図書館や書店で児童書の棚に立つことは少なくなってしまったかもしれないが、今一度そこに立ってみて欲しい。
きっと色々な思い出が本の思い出と共に浮かんでくると思う。


P.S.
「はやみねかおる」については今度まとめようと思っている。
待っていてほしい。

2018年2月6日火曜日

本との出会い(幼少編 前編)

最近、「文化資本」という言葉をよく聞く。
育った環境、触れてきたものが、その人の文化的資本として蓄積し、ひいては後々の社会的地位などにも影響を与えるらしい。

あまり文化人としての姿を見せぬ僕であるが(むしろ野蛮人のようなプリミティブな行動が目につくが)、小さい頃に本に触れる機会が多かった。読書を趣味として持てたのは幸運なことだと思う。

しかし、読書を趣味として持った現在だからそう思うだけで、運動を趣味として確立したパラレルワールドの僕(パラレルジャネイロ)は読書習慣があろうがなかろうが気にしないかもしれない。
(現在の僕は運動の習慣を身につけたかったと思っている)

本に触れる体験であるが、自分で本を読めるようになるまでは、母親に声に出して読んでもらうしかなかった。図書館(改装される前の旧北図書館)に行っては絵本を借りてきて読んでもらっていた。
『からすのパン屋さん』『はらぺこあおむし』『ばばばあちゃん』など絵本は今でも子供たちに読まれている作品が多い。
(絵本を選ぶのは子供ではなく親だ、とキングコング西野も言っていた)

人間は不思議なもので、いつの間にか自分で声に出しながら本が読めるようになる。
覚えていないかもしれないが、みんな最初は音読しながら出なければ絵本を読めなかったのだ(たぶん)。文字を音に変えるワンステップが必要なことが、人が文化の発展で文字を獲得したということを確からしくする。本能的には文字を認識することが出来ないのだろう。

今度はいつの間にか声に出さなくても本が読めるようになる。
本を読んでいるといいことがある。親や幼稚園の先生、ひいては友達の親にまで褒めてもらえるのだ。「黙読できるのー、すごいねー」なんて褒めてもらえるから、「僕はすごいんだぞ」と本を読む。承認欲求というやつだ。
そのうち「親が好まないような」本を読むほうが楽しいと気がついていくのだが。

しかし、あまり親は本を買ってくれなかったように思う。
ただ、僕の通っていた幼稚園には小さいながらもちゃんとした図書室があり、そこには図書室専門の保育士さんもいた。
そのため、何かにつけてはそこに通って絵本やら図鑑などを読んでいた気がする。
しかし、幼稚園のことなので記憶は曖昧だ。
(おもちゃのブロックを蹴り飛ばしてガラス窓を割ったことは鮮明に覚えている)

区の図書館にもよく連れて行ってもらった。
絵本の次はゲームブックを読むのにはまった。
「にゃんたん」や「ねこ丸」のシリーズを読み漁った。


にゃんたんやねこ丸を知らないと言う人はよもやおるまい。
「え?ゲームブックってなに?アプリ?」という人は悲しくなるから読み飛ばして欲しい。

さて、ゲームブックに満足すると、次は教育漫画を読むようになる。
やはり子供心に小説よりも絵がある方がとっつきやすいのだ。

そこで『まんが世界ふしぎ物語』を読むことになる。
これは本当に面白くてシリーズを色々と読むのだが、人気なのか借りられていることが多くて、結構飛び飛びで読んだ。そのせいか内容をあまり覚えていない。
教育漫画から少年漫画へすぐ移行する、とは中々ならなかった。
親もあまり漫画に対して好ましい印象を持っていなかったし、僕には兄などの少し上の年の子供との付き合いがなかったので移行には結構時間がかかった。

結構文章が読めるようになってくると、簡単な児童向け小説も読めるようになってくる。
『はれときどきぶた』とか『ふしぎなかぎばあさん』とかである。
知らない人は調べてくれ。はれぶたはアニメも見ていた。

その中でも僕がはまったのが『地獄堂霊界通信』である。
作者は『妖怪アパートの幽雅な日常』の香月日輪。


表紙からもびんびん伝わってくるのだが、子供向けとは思えないほど怖い。
尋常じゃなく怖い。座敷牢とか出てくる。怖い。
しかし、それにも増して主人公の三人組がかっこいいので、ワクワクする。

当時、世の中は空前の(?)怪談ブーム。
『トイレの花子さん』をはじめ、『学校の怪談』しかり『ぬ~べ~』しかり、僕が過ごした幼稚園~小学校の間は怪談を取り扱った作品が多かった。
『怪談レストラン』とかもこの流れな気がする。

その怪談ブームによって僕はついに「教育向けでない」漫画に手を出していくのだった。
(後半へ続く)

2018年2月5日月曜日

本との出会い(中高編)

図書館というのは良いものである。
静謐な空間にいると、世間の波から逃れてひと時の安らぎを得られる。
気がする。

僕は中高6年間と男子校に通っていたのだが、年に一度くらいは励んで図書館に通う時期があるものだ。学校なので図書室と呼ぶことにする。
「よーし、文学少年を目指すぞー」と思って昼休みなどに足しげく図書室に通ってみるのだが、大体1か月とたたずに飽きて行かなくなる。これを約6セットである。

他の学校にもいるのか分からないが、図書室には司書さんが3人ほどいて、しばらく通うと顔を覚えられた。延滞があると気まずくてなかなか行きづらい。
その結果、より延滞を重ねてしまうのだ。難儀。

うちの学校の図書館であるが、どうも並べてある本がおかしかった。
いわゆるベストセラーやロングセラーはとりあえず置いてある。
男子校の学生が大好きなライトノベルも多少だが置いてある。
(『僕にお月様を見せないで』は僕も読んだ。なつかしの阿智太郎である)

本学の学生は変わり者や変わり者気取り(僕はこっち)が多かった。
そういった者たちほど本補充のリクエストを出す。
それが独特な並びの一因であろう。
実際、僕も寺門ジモンのグルメ本を何冊か入れてもらった。
高校生はいつも腹を空かしているのだ。

男子校だからか、やはり科学やパソコン系の本が多かった。
しかし、棚を変えると、明らかにOL向けの美容の本や星占いの本などが並んでいたりする。
OLがリクエストを出したか、「うちの学校のOLに是非読んでもらおう」と学校に導入されたかどちられであろう。しかし本学にはOLはいないはずだ。第一、女生徒もいない。

「男にも女性向けの知識を」というのは分からないでもないが、それにしては軽薄な本が並んでいる。これが俗に言う「OLの謎」である。

一方で、図書室の隅には僕が好きな棚があった。
そこには大判の写真集などが立ち並んでいる。
「廃墟写真集」や「工場写真集」などを借りてよく読んだものだ。

考えてみれば、大して小説も借りていなかったのだから、文学少年を目指すも何もあったものではない。
当時の僕には「人と違う面白い人になるには、人が読まない本を読むべきだ」という確固たる信念があり、すでに中二病からにわかサブカルクソ人間へ移行する兆しがあったのかもしれない。

実際、図書室の本から多感な時期の少年は色々な影響を受けた(悪影響とは限らない)

奈須きのこ『空の境界』を読んだ。「活人形(いきにんぎょう)」を知った。
後にトーキング・ヘッズなどのアングラ系へ少し足を踏み入れるきっかけになった。

前述の廃墟写真集を読んだ。退廃的な物への郷愁に似た固執を得た。
工業的な物が自然に帰る過程に美しさを感じた。

水野仁輔の『カレーになりたい』にも図書室で出会った。
これをきっかけにカレー作りを始めた。
この本の巻末の刊行一覧でバクシーシ山下を見つけたのも覚えている。

そういえば『多肉植物辞典』や『コーラ白書』などもあった。
ハンバーガーの歴史に関する本も置いてあって熟読した。

考えると、今の自分につながる出会いが多かった。
しかし少年は、「他人と違うもの」を指向したがゆえに、「他人と違うもの」を嗜好するに至ったのだろうか。
それとも元々少年にはそういった気質があったのだろうか。

本当のところは分からない。
しかし、様々な本が置いてある図書室で世界が広がったのもまた事実なのだろう。

2018年2月4日日曜日

風のクロノア door to phantomile

あさ目がさめると
たしかに見たはずの夢が 
思い出せないことがある

その夢はいったいどこへ
行ってしまうのだろう


リングを持った少年 クロノア。
リングに宿る精霊 ヒューポー。
ある日 風の村に落ちてきた飛行船。
ここから二人の冒険が幕を開けたのだ。


プレーステーションの横スクロールアクションゲーム、「風のクロノア door to phantomile」。
クオリティが高く、どこか民族音楽の香りのするBGMで語られる事が多いがゲームとしても質が高いと思う。




アクションは移動・ジャンプとリングでの攻撃のみ。
十字キーと二つのボタンだけでクロノアを操作していく。
難易度はところどころ高め。
高度なプレイは必要ないが、ミスをするとすぐにコンティニューだ。

キャラクターは前面には出てこないものの、ストーリーや世界観を引き立てるには十分。もしかするとゲームでキャラクターの描写はそんなに重要ではないのかもしれない。
(クロノア2は少し描写が多くてもさっとしている)

ただそれでいても、プレイをしていると、クロノアの悲しさや切なさが伝わってくる。
描写がシンプルだが、とても上手なのかもしれない。

そして最後の結末は(少なくとも僕には)予想外だった。ぜひ自分の目で見て欲しい。

なお、自慢ではないが僕はクロノアのプライがやたら上手い。
見せられないのが残念だ。


【みんなが好きなゲームの話】
ちびロボ!
サルゲッチュ
ジャックxダクスター
どうぶつの森
スタートの儀式
ソーセージ・レジェンド

2018年2月3日土曜日

あむーるじゅてーむぼなむーる

名古屋にチョコの祭りが3つある。
栄三越で開催されるサロン・ドゥ・ショコラ。
栄松坂屋で開催されるショコラ・プロムナード。

そして名古屋高島屋で開催されるアムール・ドゥ・ショコラである。
今年も去年に続いてアムール・ドゥ・ショコラに美味しいチョコ(の試食)を求めて行ってきた。


しかし、いやはや物凄い人の数であった。
ショコラティエのブースがひしめき狭い通路は人の山で埋め尽くされていた。
僕が前進するたびに僕よりも階級が上の女性たちがタックルを決めてくる。
普通に歩く五倍疲れる。

トシ・ヨロイヅカやクラブ・ハリエなどは行列がすごくてとても並んでいられない。
おそらく並ぶと1時間くらいかかる。
だって列の最後尾から店が全く見えないんだもの。
しかも目玉商品は手に入らない。
手に入れるためには、数取券や整理券だからだ。
そしてそれらの券はおそらく始発で名古屋駅に来ないと手に入らない。

ここは潔く行列のあまりない店を中心に見て回る。
行列がなくてもどこも有名なお店だ。
なんか気のいいおじさんがいるなぁ、と思うと有名なパティシエだったりする。気をつけよう。

とにかく物欲しそうな顔をしながら、「へぇ、こういう商品があるんですか」「えっ、試食してもいいんですか?」とわざとらしい態度で色々と試食をいただいていく。
「回ってからまた来ます」とは言うがまた来ることはない。
これは日本人の美しい慎み深さである。

はぁ……どこの試食も美味い……
が、なかなか自分では買うことが出来ない。
どこで買っても美味しいことには違いないのだが、なんとか自分用にちょうどいいチョコが欲しい。何か買わなければただの試食魔になってしまう。

というわけで、賛否両論のチョコを購入した。
ピーカンナッツを和風のチョコでコーティングした逸品だ。
あまりに美味いのでどんどん進んでしまう。
あぁお腹が苦しい。
夜に食べ過ぎるのは心苦しい。
苦しい幸せを甘受しながら今日もカロリーを溜め込むのだ。


P.S.
ミッシェル・ブランの店員さんが全員美人だった。
あそこはいい店だ。

視線の行方

いつもと同じ道をいつもと同じくらいの時間に歩いて大学へ向かう。
そんな毎日を送っているのは僕だけではないだろう。

しかし、どうも刺激が足りなくないだろうか。
ぼーっと自動運転で自分を目的地に運べるのは楽だが、どうも飽きてしまった。
せっかくなので何か新しいことでもして、日々の繰り返しに刺激を生活に潤いを。

ちょっと駅に行くまでの道を変えてみようか。
多少の変更ならば問題ないかもしれないが、あまりに道を変えると迷いそうな気がする(僕は駅の目と鼻の先に住んでいるので問題ないが)
これで遅刻でもしたら何だか悔しい。

じゃあいつもと違う時間に出てみようか。
しかし、10分やら30分やら早く出たところで朝は朝。
いつもの時間より早く家を出るリーマンがいるだけだ。
リーマンの顔が変わってもさほど面白くない。
どうせみんな同じような顔をしているのだし。

ということで、なかなか上手く変更を加えられない皆様に一つのアドバイスをしたい。
そのために今日の記事は書かれていると言っても過言ではない。

それは「視線」である。
意識していないが、だいたいいつも同じような場所ばかり見ているのが人間だ。
前をぼーっと見ているか、うつむいて顔に陰を作っているか。
ここは視線をちょっと変えてみよう。

ではどこを向けばいいか。
僕がオススメするのは「上」である。
真上、右上、左上といったところだ。

普段歩く道を思い出して欲しい。
右上を見た時の屋根の庇を覚えているだろうか。
左上を見た時の電線のたるみに気づいてるだろうか。
真上を見た時の空の広さが目に入ったことはあるか。

意外と見えていないのが上である。

そして「普段の光景に見えていない部分がある」という実感を得られれば、自然とそういう部分を探し始めるのも人間だ。
ただの通学を宝探しに昇華する、そんな裏技である。
ワザップに投稿しておきたい。

2018年2月1日木曜日

かけ湯依存症

お風呂の醍醐味はなんだろう、とまずは考えてみて欲しい。
長湯して体の奥から温まるのも良し。
温泉ならば薬効などもあって心身ともに健やかになるかもしれない。
リラックス効果も大いに期待できるだろう。
人によっては湯上がりに飲むフルーツ牛乳かもしれない。
(いちご牛乳派はよくわからない。なぜなら僕はフルーツ牛乳派だからだ)

しかし、「入浴」という行為におけるピークはどこかと今一度考えてみて欲しい。
それは「湯船に入った瞬間」ではないだろうか。

特に冬場である。
風呂に入るために脱衣所で服を脱ぐ。
服を裏返したり袖を戻したりなどしている間にどんどん体が冷えていく。
浴室に入り、軽くかけ湯をする。
やれやれようやくだ、そんなことを考えながら湯船に浸かる。

その瞬間は宇宙である。
浴槽に入った熱い湯はまるで母なる海のように冷えた体を包み込んでいく。
自分と湯との境が曖昧になって、自分が消えていく。
あぁ自分とはなんと...なんと矮小な存在だろうか!
もはや感嘆の声をもらさずにはいられない。
僕は「はぁぁぁぁああ」と長めの息を吐く。そういう年なのだ。

とにかく、湯の塊に冷えた体が包まれる瞬間。
この瞬間こそが入浴のピークであると僕は考えている。

そんなことを考えている中で最近一つの発見をした。
体が温まったので湯船から出て体を洗う。
その日はいつものようにシャワーとはいかず、戯れに熱い湯をカランから洗面器に溜めてみた。(念の為に言っておくと、カランは風呂場の蛇口のことである。たぶん)

洗面器から湯を首筋にかける。

その時僕は大いなる発見をした。


なんと、その瞬間こそ、入浴のピークたる瞬間と瓜二つだったではないか!!

つまりは湯船から出ることで多少体の熱が放散した状態で、熱い湯を首筋にかけることにより、湯船に入った瞬間の快感を模倣することが出来る、僕はそういう発見をしたのだ。

これに気がついてからは、洗面器に湯を張って首筋にかけるという行為を必要以上にくりかえすようになってしまった。
厳密に言えば、湯船に入った瞬間よりも「包まれる」面積の少ない分、その刺激は穏やかなものである。
が、しかし首筋に限定してかけることで、感じる刺激がより鮮明なものになり、癖になる快感であるのだ。もう昔には戻れない。

もしかすると、これを繰り返すと体にあまり良くないのでは?
と若干思わなくもないが、気持ちがよいのでこれからも続けていきたい。
ばしゃー

2018年1月31日水曜日

ダブルチーズバーガー改造計画

マクドナルダー(マクドナルドが好きな人間)、名古屋地区代表のジャネイロです。
ハンバーガーが美味しい季節になりましたね、みなさんハンバーガー食べますか。

去年の暮れからマクドナルドでやってたキャンペーン、ちゃんと把握してますか。
ダブルチーズバーガーに何かが起こっていたんですよ!!!

テンションを出し切ったので、いつものテンションに戻ります。
ダブルチーズバーガーといえば、マックの定番メニューの一つ。
マクドナルドの総選挙でも優勝した、いわばマクドナルドで一番の人気商品です。

そんな完成されたダブルチーズバーガーに手を加えてキャンペーン商品なんて作れるはずがない、ということで食べにいってきました。

まずは「トリチ」ことトリプルチーズバーガー。
総選挙優勝の公約で前回ごくわずかな間だけ販売されたトリプルチーズバーガーが帰ってきました。前回は食べ損ねたので、すでに嬉しい!!
さてお味は……

美味い。
パティ(肉)とチーズのバランスはダブルチーズバーガーの時のまま、単純に1.5倍の迫力になったジャンクフード感びんびんの最高なバーガーです。


やっぱりパティとチーズは1:1だよなー。
なんてことを考えながら、次は「チーチーダブチ」ことチーズチーズダブルチーズバーガーという(頭の悪い)バーガーを頂きます。
このバーガー、いつものダブルチーズバーガーに、通常のチーズとは違う種類のチーズが2枚挟まれています。
絶対チーズ多いって……
さてお味は……


美味い。
やはりチーズの味が前面に出てはいますが、肉の味がチーズに包まれ、まろやかながらも絶対的なコクで殴られます。これもジャンクフード感強い!
正直、チーズチーズダブルチーズバーガーはレギュラーにして欲しいぐらい好きだった……


さて、実は今週からもう一つのダブルチーズバーガーが販売されています。
その名も「ダブダブチ」ことダブルダブルチーズバーガー!!
パティ4枚、チーズ2枚の圧倒的ボリューム!!
からだ巡り茶で広末涼子が浄化出来るなら、ダブダブチはだいぶ濁らせられそうですを
さてお味は……


美味い。
が、チーズの味がほとんどしない……
肉とチーズのバランスがあまり良くないです。
たぶんチーズなくてもそんなに味が変わらないのでは??
ボリュームがあるのはいいんですが、チーズバーガーではないですね。
ここは更にチーズ2枚追加で、チーチーダブダブチにして欲しい……


さて、そんな感じで3種のバーガーを食べたわけですが、僕はやはりチーチーダブチが好きでした。追加のチーズはコクが豊かで最高でした。

ダブルチーズバーガーキャンペーンはこれで終わりのようですし、僕はまたビッグマック、ポテトL、コーラLの生活に戻ろうと思います。
また新商品出たら食べに行きます。

2018年1月30日火曜日

生活を立て直せ~冬v.s.コーヒー~

朝起きる。どうも眠い。まだ体が目覚めていないようだ。
そんなこんなで大学に行く。昼ご飯を食べるが、まだなんとなく眠い気がする。
眠いし夕方くらいに研究室を出て家に帰る。夕食を食べると眠気が襲ってくる。
つまり冬は一日中眠いのだ。
冬眠しようと思う。
~完~


では、なかなか生活していられない。
そもそもなんで冬は眠いのだろうか。
「冬季うつ病」などというのも世の中には存在していて、冬は気分が落ち込む傾向にあるらしい。とても庭を駆け回ってなどいられない。

原因としては「日照量の減少」と聞いたことがある。
確かに朝起きて薄暗いとそれだけで眠い。

あとは気温が低いとか、低気圧がどうこうとか、そういうなんやかんやが関係しているのだと思う。
たぶん副交感神経(リラックスする時のやつ)が優位なんだろう。

僕の中で副交感神経が「おいおい、まだまだ休んだほうがいいぜ」「出かけるなんて危険だ。早く布団に戻れよ」としきりに勧めてくるので、体が思うように起動状態にならないのだろう。副交感神経も僕を守るために勧めてくれているので、むげに扱うのも悪い。
という訳でなんとかここは交感神経に頑張ってもらうことにした。

簡単だが、とりあえず朝食後にコーヒーを飲むことにした。
これで体が起動状態になる。
一日の中で何回かコーヒーに頼るので、薄めのを一杯飲む。

コーヒーだけではまだ足りない、という時もある。冬は強い。とても強い。
そんな時はコーヒーで生まれたエネルギーを利用して、なんとかシャワーを浴びる。
熱いシャワーを浴びると、体の電源が起動した感じがする。

これで朝にしっかり体を起動しておくと、割りと一日は元気が持ったりする。
それでも時間とともに「あー体のエンジンが落ちてきたなー」となったり、そこを飛ばして「もう何もしたくない...」状態にもなるので、そういう時は追いコーヒーである。

しかし、コーヒーも飲み過ぎるとカフェインが効かなくなってくると思う。
一日3杯くらいを限度にしたほうがいいだろう。
そして出来れば薄めにして飲もう。

医学的根拠はある「気がする」だけなので、騙されないように。

ソーセージ・レジェンド

この記事はソーセージ・レジェンドについてである。
僕が愛してやまない映画『ソーセージ・パーティ』については日を改めて書かせて頂きたいと思うので、みんな視聴して待ってて欲しい。
ちなみに別にこの記事を書いたからといって、ソーセージ・レジェンドの開発元からシャウエッセンが送られてくるとか、そういういい事はない。
だから、是非だれかシャウエッセンを送って欲しい。

ソーセージ・レジェンドはゲームアプリである。
おそらく電車でスマホをいじる老若男女の8割はこのゲームをプレイしているはずだ。
あとの2割はアングリーバードをやっている。

このゲームが何のゲームかは、タイトルで一目瞭然。
ソーセージ・レジェンド。
日本語に直せば「腸詰め伝説」である。
さぁ一緒に伝説を作っていこう。



荘厳なBGMとともに「Sausage Legend」のロゴが表示される。
おぉ、早くも剣と魔法のファンタジーが始まりそうな予感がする。
スタートをした途端にちょっと寂しげな音楽と共に名前入力に移行しそうだ。
ロゴの後ろで立派なソーセージがぶらぶらしてる気もするが、気にしないでおく。
(ついでに、上に出てくる広告も無視してくれ)



ソーセージ・レジェンドだが、色々とモードがある。
まぁここはやはり1プレイヤーモードでいこう。
友達もいないし。

1プレイヤーモードを選択するとノーマルモードかレベルアップモードを選べる。
レベルアップモードでは自分で強化したキャラクターを使えるが、ここはシンプルなノーマルモードを選択。




次はキャラクター選択だ。
これだ!、というキャラを選んで冒険に出かけよう。



さぁどのキャラクターを選ぼうか......
どのキャラクターも複雑な背景が垣間見える顔をしている。
一体彼らはこれまでどんな人生を送り、そして腸に詰められるに至ったのか……

ここはゲームの紹介、ということで主人公(きっと一番上にいるから主人公だ)を選ぼう。
さぁ、ホットドッグの物語がここから始まる!!



あっ!!!ウィンナーソーセージだっ!!!
ここまで引っ張ってなんだが、ソーセージ・レジェンドは格ゲー(?)である。

操作は簡単。
相手に攻撃が当たりそうな時に画面をタッチするだけ。

すると元気がなかった僕のソーセージも、身を起こして戦闘状態に。

おりゃ、おりゃ。くらえ、くらえ。



ひたすら僕のソーセージが相手のソーセージをつんつんする。
僕のソーセージからの刺激によって、ついに相手は限界に達し…………






発破っ!!!!

見るも無残に砕け散ってしまった……


そうして同じようにつんつんして、きりたんぽを撃墜し……



続けてブラート・ヴルストを撃破した。





僕のソーセージは世界一!!

このまま世界を救ってやるぜっ!!!(世界は救えない)
さぁいよいよボス戦。
かかって来い、アメリカンドッグっ!!!!





あっ



あ……


こうして僕の冒険は終わった。

ゲームモードで入手したコインを使って、ガチャも引ける。
ガチャで新しいソーセージを入手すればゲームで使用出来るようになる。

レベルアップモードに向けて自分のソーセージを強くすることも出来る。
自分のソーセージを逞しくしたい人はどんどんお金を費やして欲しい。
1ランク上の漢になれると思う。


日々のソーセージ成分が足りないという方は是非プレイしてみてくれ。
そして2プレイヤーモードで闘おう。友達募集。


P.S.
余談だが、なぜかリーダーボードが開かなかったので、僕が頑張って連勝を重ねた記録は自慢できなかった。何のために頑張ったんだ………



みんなが好きなゲームの話
ちびロボ!
サルゲッチュ
ジャックxダクスター
どうぶつの森
スタートの儀式

2018年1月26日金曜日

森見登美彦とは

「まぁなんとかなるさ」「今を楽しむことが重要だ」などと嘯きながらも、その姿のいまだ見えぬ明日への不安を抱いている。一方で摩訶不思議な出来事に巻き込まれながらも、一方で等身大の生活を楽しんでいるのだが、同時にその生活自体に悩んでいる。
森見登美彦の世界にはそんな学生がよく登場する。
そして大体の場合、舞台は京都だ。

森見の作品に最初に触れたのは映画『夜は短し歩けよ乙女』である。
以前からその名前は耳にし、書店で表紙を目にし、友人が語るを聞きし作品ではあったが、勝手にポップな世界をイメージして敬遠していた。
しかし、映画となれば話は別だ、と思い特に前評判を聞くこともせず、下調べもせず、ふらふらと映画館に吸い込まれていった。

だがその映画の素晴らしさたるや、油断してガードを下したところにアッパーカットを合わせられたような衝撃であった。
それは湯浅監督の貢献も大きいわけだが、それで俄然この「森見登美彦」という作家に興味を持つに至った次第だ。

それから『四畳半神話大系』を読み、『太陽の塔』を読み、あれを読みこれを読み、いつの間にか全作品を読んで、エッセイと対談集まで読んでしまった。

実をいうと、『四畳半神話大系』を読むまでの6,7年間、ほとんど小説というものを読まなかった。なんというのか、現実の自分と小説の中の主人公との間の乖離を感じ、明るい話を読んだ後も明るい気分にならなかったからだ。
映画やアニメなどと比べ、自分で想像する部分が大きいからなのかもしれない。

一方で森見登美彦の世界はファンタジーで飾りつけてあるが、その根幹には劣等感を感じ将来に怯えながらも強がる、主人公の不器用さ・弱さのようなものを感じた。
あえて言うと恥ずかしいが、自分を投影することが出来る像であった。
自分が投影するために、その部分ばかりを見ているのだと言われたら否定はできないが。

そういえば、大学生が主人公だから、逆にそれが重くてなかなか読めないと言っている友人がいたが、おそらく彼は僕よりも器用なのだ。器用な人間にはおもりとなる物語が、不器用な人間には翼となることもある。

もしかするとそれは森見登美彦自身の経歴ゆえなのかもしれない。
大学4年の時に研究室からドロップアウトした森見は、大学院に(なぜか入れたので)もどり、在学中に『太陽の塔』でデビューを果たしている。
大学時代に森見が感じていた漠然とした不安感が下地になり、物語に昇華しているのかもしれない。


せっかくなので、ぜひ読んでほしい作品をいくつか紹介する。僕の拙い文章で興味が出た方は是非読んでみてほしい。

『四畳半神話大系』
アニメ化もされた、森見登美彦の代表作。
下宿の仙人、謎の美女、黒髪の乙女、そして妖怪じみた悪友が腐れ大学生の「私」を様々なトラブルへと突き落としてゆく。
原作の4部構成、そしてそれをさらに拡大したアニメ版ともに見事。
語るに及ばず、一見の価値あり。


『有頂天家族』
糺ノ森に住む狸の家族。四兄弟の三男、矢三郎は父から受け継いだ「阿呆の血」ゆえに、様々な問題に首を突っ込み、巻き込まれていく。
京都を舞台にたぬきの頭領争い、天狗の相続問題、そして様々なもめ事の裏に暗躍する影。
三部作で現在二部まで刊行。三部はおそらく5年後くらい...?
これもアニメ化されており、昨年に放送されたばかり。
他の作品とは異なり、家族愛・兄弟愛にスポットを当てた作品である。
感動はするわ、血は煮えたぎるわ、なエンターテイメントである。


『ペンギン・ハイウェイ』
常に何かを学ぼうとする理知的な少年と、歯科医院の不思議なお姉さん。
ある日、街に現れたペンギン。森に広がる不思議な空間、そしてペンギンを襲う怪物...。
他の作品に比べ、より低い年齢層でも楽しめる作品。
それでいて、一番切ない作品かもしれない。

『きつねのはなし』
京の街で一本脇道に入れば、そこには怪異が佇んでいる。
そんな京都怪異物。森見登美彦の元々の作風はこっちらしい。
普段書いているコミカルでセンチメンタルでノスタルジーな作風とは大きくことなり、しっとりとした情景にとぷんと飲み込まれるような作品。
京の街だからこそのリアリティと、どろどろとした不気味さの虜になること請け合い。

『夜行』
刊行された作品の中では最新作にあたる。
十年前の鞍馬の火祭りで行方不明になった女性。
当時の仲間で集まる夜に各々が語り出す「一本向こうの」世界の話。
そして全てを結びつける岸田道生の連作「夜行」とは?
「きつねのはなし」では京都怪異物に落とし込むことで自然と抑えられていた、湿度の高い恐怖に飲み込まれ、読んだ後は世界の不安定さが恐ろしくなる。
叙情的でじめっとした質感が肌まで伝わってきて、限りなく不気味。
とてもおすすめ。


以上、短くはなったが幾つか作品の紹介をさせてもらった。

是非読んで欲しい。

2018年1月25日木曜日

友よ、期待してくれるな

期待されるのが苦手だ。故に僕になるべく期待しないで欲しい。
人というのはいつのまにか他人に期待して、他人がそれに沿わないと怒ったり悲しんだりする、実に勝手な生き物である。

そういう僕もなんとなく人に期待していて、それが叶わない時には怒ったり悲しんだりしている。お店の人は笑顔を見せてくれるし、LINEはすぐに返ってくるし、明日の天気は晴れだ、となんとなく思っている。
そういう期待が何世代も重なって「礼儀」とか「常識」とか、もっと言えば「法」とかが作られているのかもしれない。
挨拶も貸した金も返ってくるはずなのだ。
みんなが「普通に」期待することだから、それが正しい事になっているのかもしれない。

マナーの押し付けは、期待の押し付けみたいなところがある。
別にそれはあなたが勝手に期待しているだけで、僕がそれを守らなかったからといって怒られても困る、ということもままある。
「お前のルールなんて知らないよ」なんて思って適当にしていると「常識がない」と言われて、よく信用をそこら辺に落としている。どうやら彼だけでなくみんなが期待する「常識」というやつだったらしい。これは線引きが難しい。まぁ常識を守らなきゃいけないという事もないのだけれど。

アドラー曰く、相手の怒りなどは「相手の問題」である。相手が怒ることは、相手が自ら行う行為であり、それに拘泥する必要はないと言う。
僕もそれには賛成だけれど、そう生きられるほど強くないので困ってしまう。
人の期待に沿わない、というのは自分でレールを敷く必要がある。期待に沿わなくていいので、それをサボるも自由だ。となるとサボってしまう気がするし、色々なことが適当になってしまう気もする。
自分で定めたルールを守るというのはなかなか大変なことなのだ。

まぁそれでもどうも人の期待に応えるのが苦手なのだ。
諦めでもあるし、開き直りでもあるが、かっこつけでもある。むしろかっこつけである。
自分の磁石はどちらを向いているか。

2018年1月24日水曜日

ジャックxダクスター

少年が駆け回るっ!!
ジャングルを、火山を、孤島を、海中遺跡をっ!!
肩にイタチを乗せてっ!!


ジャックxダクスターとはつまるところそんなゲームである。
2001年に発売されたPS2の米ゲー、開発はノーティドッグ。

舞台は自然エネルギー「エコ」が宿る原始文明世界。
古代プリカーソル文明の超技術を活用し、この世界の人々は気ままに生活をしている。
そんなエコの一つ「緑のエコ」の研究者であり「緑の賢者」セイモス・ザ・セイジィの下で修業する二人の若者、ジャックとダクスター。
彼らは師が立ち入りを禁じたミスト島に小冒険へと出かけるが、そこでは何やら良からぬ者たちがひそかに蠢き始めていた...

というのが簡単なあらすじである。
その後、なんやかんやでダクスターはイタチになり、二人は闇の力「ダーク・エコ」に立ち向かっていくのだ。

詳しくはオープニングムービーでも見て欲しい。



そんなゲームだが、これがなかなか。面白いったら面白い。
アクションの切れ味は抜群、スピード感も良い。
なにより「冒険してる感」がびんびんにある。少年の心(すでに殆ど失われた)がかき立てられる。

正直、本当に少年だった小学生当時の僕には難易度が高くだいぶ苦戦した。
その後何回か遊びなおしたが、大人ならわくわくする程度のストレスのない難易度だと思う(ゲーム慣れしていない人はだいぶ大変だと思う)

やはり体力が3つ(緑のエコを最大チャージしても4つ)しかないので、適度に緊張感が保たれてよい。これが体力1つだと即死ゲーになるし、体力が多すぎると簡単すぎて強行突破しがちだ。
3つくらいがちょうどいい。

基本的には数あるミッションを自由にこなしてプリカーソルを集めているうちに、いつの間にか次のステージへと進めている。ストーリーを楽しむなら、とりあえず手の付けられるミッションからこなしていけるので、ここもストレスフリーだ。

最初から最後までジャックのアクションが増えたり、攻撃力が増したり、体力が増えたり、という成長はない。だからその分、自分の成長が目に見える。気持ちいい。

キャラクターは洋ゲーらしいデフォルメとクセの強い性格(大体性悪)で、世界にするっと入り込んでいける。変に気取った「良い」キャラクターもいないし、みんながみんな等身大な感じが素敵だ(これはラブデリックにも通じる)。
クラッシュ・バンディクーやバンジョーとカズーイが好きな人には絶対受けるはずだ。


さて、思い出補正も入ってべた褒めしたこのゲームだが、欠点はないかと言えば、ものすごい欠点がある。

ゲームを起動してタイトル画面が表示される、早くプレイしたい!!
と思って〇ボタンを連打する。
すると、何故か最初のオープニングムービーが流れる。

実はこのゲーム「さいしょからはじめる」が毎回一番上に表示されるのだ、
そのため、〇ボタンを連打していると最初からゲームが始まることになる。
まぁそれは良い。いや、普通は良いはずだ。リセットすればいいのだから。

最悪なのは、「さいしょからはじめる」を選択してムービーが流れるまでの間に自動セーブがされるのだ!!
つまり、ムービーが流れ始めた時に選択間違いに気が付いても、すでに手遅れ
今まで頑張ったセーブデータは上書きされゼロからのスタートになってしまう!!

...僕が全クリまでに一体何回データを飛ばしたか分からない。
オープニングムービーが流れた瞬間にうなだれ、そのままPS2の電源を落としてしばらくゲームに触れなくなるほどのダメージがある。
これからプレイしようという方は、本当に注意してほしい。

追伸:

噂によるとPS4版も出ているらしい。
大ファンとしては改善されていることを願うばかりだ。


みんなが好きなゲームの話
ちびロボ!
サルゲッチュ