2017年12月31日日曜日

2017年まとめ

2017年も残すところ数か月、となったところからブログのほぼ毎日更新を始めた。
せっかくなのでここ数ヶ月の記事の中で、僕自ら気に入っている記事を紹介だけしておきたいと思う。

【食べ物系】
クワイ
君はクワイを知っているか。

卵かけご飯
TKG予想

ルートビア
読むとルートビアが飲みたくなる。

【小説(2つしかないが)】
鏡ヶ池

勤労感謝祭

来年はもっと小説の頻度を上げたいと思う。

【その他】
欠席理由
ビューが多くてやる気が出た最初の記事。

ふいんき
普段よく考えてる言語に関するしょうもない悩み。

夜明け前の藍色
数年前は夜勤バイトもよくやっていたので明け方に歩くことが多かったです。

夜の散歩
深夜に散歩するのはとても楽しい反面、次の日へのダメージが大きい。

没入
初のライフハック記事。ライフハックが増えたら、僕は終わり。


こうして数か月ブログを更新できたのも、普段読んでくれている皆さんのおかげです。
「毎日読んでるよ!」と言って下さる方もいて、嬉しい限りです。
来年はブログはもとより、それ以外でも、もっともっと文章を書いていきたいと思います。

2017年12月29日金曜日

ミュシャはナウかった

松坂屋美術館は思ったほど混んでいなかった。
わざわざ年末を選ばずとも、新しい年を迎えてから来ようと考える客が多いのかもしれない。
そんなことを考えながら、写真撮影用の立看板で律儀に写真撮影をした。

アルフォンソ・ミュシャ。
アール・ヌーヴォー(新しい芸術)を代表する画家の一人である。
チェコ出身の彼はパリで栄光を掴み、晩年はチェコでのスラヴ文化継承に勤しんだ。
かねてからミュシャの作品が気に入っていた僕は、年末の暇を利用して馳せ参じた次第だ。

彼の絵には驚きを感じるばかりだった。
彼の時代で一般的な画風を詳しく知らない上で言うのだが、その作品からはひしひしと新しさを感じた。
魅力的な女性と独特な文様。
自然と女性の美しさが相互に高め合い、現実を超えた神話的な美を感じた。

サラ・ベルナール主演劇の宣伝ポスターも何点も展示されており、僕が一番好きな『メディア』もそこにあった。グッズはなかった。残念。

彼の作品ではないのだが、印象に残っている写真があった。
ミュシャが友人のゴーギャン、マロルドと共に撮った写真だ。


何よりゴーギャンの花帽子が可愛い。パリの小洒落た帽子なのかもしれないが、どうも彼の少し暗めの顔と不釣り合いで可笑しい。
一番右に写っているのは、ゴーギャンの愛人、アンナである。
音声ガイドでは「ジャワ女アンナ」と言っていた。
ゴーギャンの作品のモデルともなっており、その作品名(邦題)が「ジャワ女アンナ」であるから、間違ってはいないのだが、「ジャワ女」という聞きなれないフレーズにまた笑った。

いつか彼の人生とも言える作品『スラヴ叙事詩』を観に行きたい。
日本男ジャネイロがお送りした。

何故に読書

読書をする。
なにゆえに書を読むのか、と聞かれた時のために、ここしばらく答えを考えていた。
せっかくなので僕は「娯楽」と言い切りたいと思う。

ただ「美味しいものが食べたい」や「可愛い女の子とお酒が飲みたい」と同じ感覚で「面白そうな本が読みたい」のである。
本を読んで成功したいとか、本を読んで成長したいなどは二の次三の次である。

しかし、本を読んで何かを学ぼう、という思いがないわけではない。
何かを知り、それが自分の中の別の知識と繋がって網目のようになっていく。
これは非常に気持ちが良い。
美味しいもので適度にお腹を満たすよりも、更に素敵な快感が走る。
ただ、それを何か学業や将来につなげようという思いが、どうも自分にないのである。

本を読んで知識を得て、知識を繋げて、悦に入る。
ここまでが自己完結していて、社会との接点があまりない。
誰かと読んだ本について語り合いたい、という思いも特にない。
語り合ったら楽しいのだろうが、中々そういった機会に恵まれないため、おまけのおまけ程度に考えてしまっている。友達が少ないわけではない、決して。

自分にとって読書とは習慣であり、あるいは脳を調教し、快感が生まれる回路を構築させた結果の行動なのかもしれない。

ところが、最近少し変化が生まれている。
自分の中に溜め込んでいた物を、ふわっと空気を含めて混ぜ合わせ、自分から出していくことを始めた。
その一つがこのブログである。

そうすると、今まで自己完結だった読書に間接的ながらも社会との接点が生まれたような気がする。
人は変換器である。
僕が読んだ本やプレイしたゲームの諸々が、僕という変換器で貌を変えられて、文章となり出力されている。
多少の紙詰まりなどは許して欲しい。

そして来年もまた良ければブログを読んで欲しいのである。

2017年12月27日水曜日

スタートの儀式

前に久しぶりに友達と集まってNintendo 64をやろうか、という事になった。
ゲーム機本体を用意した。
コード類も完璧に揃っている。
カセットもちゃんと準備してある。
コードをつなぎ、ソフトを差し込んだ。

さぁやるぞ!!
となるのだが、ゲームが起動しない。
本体の電源は入っているのだが、ソフトが読み込まれない。
そこから5分超に渡り、原因の検証が始まる。
コードが傷んでいるのではないか?ビデオ1で本当に間違いないのか?白と黄色と赤のコードは正しい場所に挿さっているか?
そして、やはり「カセットの差し具合が問題だ」ということになり、強めに差してみたり、優しく差してみたり、ふーふーしてみたり、と検証が続く。

そして、ついに64のロゴとともにゲームが起動する。
この瞬間、みんなから歓声が上がる。

一連の作業を終えた僕は、しみじみと「懐かしさ」を感じていた。
懐かしい……64はプレイ前にこの儀式があったのだ……

64の発売は1996年である。20年前はみんながこの儀式をしていた。
最終的にはブラウン管テレビの3色コードを挿すところがぐらぐらになり、何かを挟んだりして上手く画面が映るようにするまでがセットであった。
最近の僕といえば、指紋認証でiPhoneを開き、アプリを起動するだけの生活を送っている。
しかしやはりゲームの前にはこの儀式が大切なのではないか。
楽をすると良くない、と宮崎駿も言っていたではないか。

そう思いながら、先日プリンターで印刷をしようとしたら、全くもって上手くいかない。
プリンターにデータが送信されない、紙がつまる、破れると大わらわであった。
最後にはなんとか印刷にこぎつけたが、歓声は上げず、呪詛を吐きつけたのみであった。
機械での苦労は必要ないと実感した。

余談であるが、本日、中古で購入した「ピポサル2001」をプレイしようとしたところ、プレステ2なのにも関わらずディスクを読み込まず苦労した。
年越しまでにクリアしたいところである。


【合わせて読みたいゲームの話】
ちびロボ!
サルゲッチュ

2017年12月26日火曜日

僕らが苦手な集団作業

クリスマスが終わって今年もあと僅か。いかがお過ごしだろうか。
僕は今日も今日とて大掃除である。

物の山を整理し、崩していくのは楽しい、というのは昨日の記事に書いた。
それ以外もみんなでわいわいと作業をするのは楽しいものだ。
学園祭の準備から感動要素を抜いた感じだ。楽しくないはずがない。

ただそれは「仕事がある場合」に限られる。
人数の関係上、どうしても全員分の仕事がない時間も生じてくる。
みんなが掃除をしている中で、一人だけ手持ち無沙汰というのも何か気まずい。
そんな訳もあって、皆が皆、我先にと作業についていく。
一方で僕らのような「やれと言えばやるが、別に率先してやりたくもない」存在、具体的に言えば、普段はクラスの隅に座っていて、文化祭では特に仕事を割り振られることもなく、かと言ってぼーっとしていたら、運動部などにサボっていることを責められるような、そんな存在は仕事を取り逃がす。

かと言って周りをぶらぶらしていれば、皆の目が痛いし、サボってどこかへ行っていれば仕事をしていなかったのがバレてしまう。

そういった事態を避けるために、用もなく部屋を行ったり来たりしたり、階段を駆け足で上ったり下ったり、といったルーチンに邁進する事となる。
まるで人生である。
深い意味はない。

大体、みんな急いで取り掛かるほど仕事熱心ならば、仕事を譲った僕には感謝こそすれ、非難するのはおかしい。全く筋が通らないではないか。
などと、いう思いをぐっと飲み込み、今日も一生懸命に階段を上り下りしている。

【一緒に読みたいライフハック】
没入

2017年12月25日月曜日

大掃除

クリスマスイブとクリスマスが過ぎ去ろうしている、いかがお過ごしだろうか。
僕は両日とも大掃除をした。
もっと言えば明日もする。やり過ぎだ。

しかし、実際のところ大掃除というのは楽しい。
正確には大掃除というよりも、山のような荷物の整理が楽しい。

自分の部屋で一人ぽつぽつとやっているのは、気が散りやすいし捗らない。
これはそんなに楽しくない。大体何があるかも分かっているものである。
やはり楽しいのは、人の家や仕事場などの整理である。

荷物が積もり積もった山を崩し、一つずつ捨てるかどうかを決めていく。
ゴミを捨てるたびに部屋にスペースが生まれていくのは爽快感がある。
山からはひょっこりひょっこりと次から次に知らないものが飛び出してくる。
それを家主と選抜していく。
物によっては家主が思い出などを語ってくれて、これもまた一興である。

そしてもう一つの醍醐味はゴミ漁りである。
家主が「もういらない」とゴミ認定した中に、ちょっと良いものがある。
大昔のキャラクター文具や、よくわからないチラシ、誰のものかわからないエトセトラ。
こうした物をいくつか失敬していくのが楽しい。
これはまさに宝探しである。

今日は研究室の大掃除をした。
そして捨てられる寸前のブタ(のぬいぐるみ)に情が移り、連れて帰ってきた。
このブタは洗濯機に投げ込まれ、その後僕の家で暮らしていくこととなる。

大掃除をしたいなー、と思っているみなさんは、是非友人などを招いて行って欲しい。
最後に飲み会などやるとモアベターである。


【合わせて読みたいライフハック】
没入

2017年12月22日金曜日

研究室生活

研究室生活を再開してもうすぐ3ヶ月が経過しようとしている。
なんとも変化のない毎日を送っている。ルーティンは楽である。
何もルーティンがないと、毎日起きる時間とやることを考える手間がある。
これはこれで良いのだが、果たして今日一日、自分が何かを行なったのか不安になる。
一方で最近の僕は朝に起きて研究室に行き、夜に帰る生活を続けている。
具体的に言うと、朝7時過ぎに起きて、9時ごろに家を出て、19時ごろに帰宅する。
なんとも褒められた勤労者である。もっと寝ていたい。

とは言うものの、研究室での活動がしっかりしていなければしようがない。
主に研究室で何をしているか、というと論文を読んでいる。
関係のありそうな論文をざっと読み、役に立ちそうなことを1.2ページノートに書いて、次の論文を読む。時々、ノートを読み返しては分からない事を調べる。
この作業を続けた結果、同期から「3ヶ月で大分詳しくなった」とお褒めの言葉を頂いた。
一方で実験をあまりにやっていなかった為、「もっと実験をせよ」と怒られた。

実験となると、どうも面倒である。
僕は細胞を培養しているのだが、実験を行おうと思うと機械を予約しなければならない。
そうなると機械を予約する日から逆算して、実験計画を作る必要がある。
そしてその実験計画に向けて細胞の成長具合を調整しなければならない。
これが果てしなく面倒で、担当教官から「年内か年明け」にやればいいと言われた実験を年明けに投げたせいで、最近はひたすら論文を読む生活を送っていた。
午前中は集中力が高い。
論文を読んでいるうちに昼になるので、机からバナナを出して食べる。
その後に軽く散歩をする。これをしないと午後から全くやる気が出ない。
しかし、散歩をしても集中できるのはせいぜい15時くらいまでで、そこからは目が疲れて集中できなくなる。なのでこの時間くらいからはルーティンの作業をしたりする。その後、夕方になるとYouTubeを見たりし始める。

どうも夕方から夜にかけての時間帯が一番目の疲れが出るようで、家に帰ってからは割と元気にごろごろしている。今も元気にごろごろしている。
来年は実験をちゃんとやろう。

2017年12月21日木曜日

ダイエット

おそらくこのブログを読んでいる人は、普段から痩せたいと思っている体型の人だと思う。今この瞬間も、片手はポテトチップスの袋の中で油にまみれ、てかてかになっていることだろう。

何を隠そう、僕もダイエットに何度も取り組んだことがある。言うなればダイエットのベテランである。熟練者らしく、痩せては太り、痩せては太りを繰り返している。
僕の体重を縦軸に、時間を横軸にとった場合、心電図のごとき振動を見せることは想像に難くない。

だが、実際に10kgの減量に成功したこともあるし、最近も5kgほど痩せたのだ。

僕が実践したのはレコーディングダイエットである。
つまりは摂取したカロリーと消費したカロリーを記録する、というダイエットである。
朝、朝食前に体重を計る。
体重、そして食べた物をアプリに記録していく(僕は「あすけん」を利用していた)
最初に目標体重を設定することで、1日の摂取カロリーと消費カロリーの目標が提示される。あとはそれを達成するだけである。

これは実に簡単なダイエットである。
実際、これで大幅な減量に成功したのだが、大きなデメリットが潜んでいたのだ。

それは、
「寒くなってくると体重を計るのが辛い」
ということである。

「朝に体重を計る」というのがこのダイエットの肝である。
朝の体重を見ることで、1日のモチベーションが維持される。
しかし、冬になってくると寒くて体重を計ってなどいられない。
薄着になるのがそもそも無理である。
結果、高カロリーの物を食い漁り、アザラシのごとく肥え、とてもレコーディングを続けられなくなる。アザラシの前足はひれだからだ。スマホが操作できない。

その結果、僕は「夏に体重を減らし、冬に体重を蓄え、冬眠に備える」という体重の年周リズムを示しながら生活をしている。
みんなも暖かくなったらレコーディングダイエットに挑戦して欲しい。
手に持っているポテトチップスにはコーラが合うから一緒に飲んで欲しい。


P.S.
この記事を書きながら、「もしかして温かい部屋に体重計を持っていけばいいのでは?」という気づきを得た。試してみたい。


一緒に読みたいライフハック
没入

2017年12月20日水曜日

ルートビア

当初は「炭酸飲料」、もしくは「人を選ぶ食べ物」というタイトルをつけようと思ったのだが、とても一度に読める文量に収まらないだろう、ということで「ルートビア」とした。

そもそもルートビアを飲んだことがある人はどれほどいるだろうか。
学生生協では毎年「沖縄フェア」なるイベントが開かれる。
ルートビアはそこに必ず並んでいるため、祭り好きの学生諸君は知っているかもしれない。
そして、そこに並んでいる、という事象から「沖縄に関連のある飲料なのだろう」という予測もつくと思う。

茶色い缶に大きく「A&W」のロゴ。
そして商品名は「ルートビア」

どうもぱっと見で得られる情報が少ない。
現に初めて見た人達からは「ビールなのか」という質問もよく出る。
しかし、これはれっきとした清涼飲料水である。
もし、何かの系列に並べよ、と言われたならば、僕はコーラの系統に含めても良いのではないかと思う。これは諸説あると思う。

「A&W」とはアメリカを中心に展開するレストランチェーンである。
そしてアメリカだけでなく、沖縄にも店舗を展開している。
那覇空港にもA&Wの店舗があり、沖縄に行った際は必ずそこでハンバーガーを食べていた。(最近は沖縄自体行っていない)
アメリカの店舗を知らないからなのか、僕にはレストランチェーンよりもハンバーガーショップのイメージが強い。

余談だが「恋物語」で戦場ヶ原と貝木が会話をしてる最中に描かれた那覇空港は懐かしかった。沖縄を描かずに那覇空港だけを描くのは渋く美しい。
余談終わり。

これで沖縄フェアと「A&W」の繋がりが分かったと思う。
さて、その「A&W」に行くとジョッキで頼めるのがルートビアである。
しかもこのルートビア、ジョッキで何回でもおかわり自由である。最高か。

つまり「A&W」ルートビアとは、A&Wが自社ブランドとして発売しているルートビアのことである。
この言い方が引っかかった方もいるかもしれない。
「まるでA&Wブランドじゃないルートビアがあるみたいじゃないか!」と思うかもしれないが、実際にあるのでこういう言い方をしている。
日本でたまに見かけるのはDad’sのルートビアである。味はほぼ同じ。

ここまで来た、ようやく味の話が出来る。
ネタバレになるので、先入観なく飲みたい人は、週末にビレッジバンガードなどで購入し、飲んでから読んでほしい。

ルートビアの味を一言で言うと「湿布」である。
より詳しく言うと甘い湿布である。湿布シロップの炭酸割りである。
味は甘いのだが、湿布の香りがとても強く、無視するのは不可能である。
しかし、癖のある食事に通ずることであるが、慣れるとそれが癖になる。

ルートビア、あぁルートビア、ルートビア。
と沖縄を訪れた芭蕉も詠んでいる。
さぁ、ルートビアを飲もう!一口飲めば、頭の中は沖縄一色だ!
本来はアメリカの飲み物だが。


P.S.
最近ルートビアの仲間である「黒松沙土」を飲んだ。
読み方が分からないが、僕は「サード黒松」と呼んでいる。隠し球が上手い。
ルートビアに薄いフルーツジュースを混ぜたような不気味な味だった。
また飲みたい


一緒に読みたい食べ物の話
・クワイ
・卵かけご飯

2017年12月19日火曜日

卵かけご飯

こだわりがあるかないか、で言えばこだわりのない人間ではない、と思う。
寝る時にどこから光が漏れていれば気になるし、ボールペンはなるべくsignoのキャップ式以外は使いたくない。
その一方で、3日間同じ服を着ていても気にならないし、3食4食カレーが続いても全く問題ない。カレーの場合はむしろ嬉しい。6食9食続いてもいい。

こだわりというのはなるべく持たない方が生きやすいに違いない。
目玉焼きが出された時に醤油だのソースだのいちいち注文をつけたりする必要もない。
さらに「料理店は必ずソースも一緒に出すべきだ」というような、はた迷惑なこだわりを持っている人は、ソースが出てこないたびにイライラするだろう。
その点、僕は目玉焼きなら醤油でもソースでも塩コショウでもなんでも良いため、ストレスレスに黄身と白身をつるっといける。黄身は半熟が良い。

一方で、こだわりが全くなければ、生き方に筋が無いように感じる。
こだわりとは「美学」である。
美学を持った人間は美しい。角度にもよるが。
僕は余分なこだわりが贅肉のようについているので、いささか不健康である。
しかし、贅肉だっていくらかは必要なのだ、とうそぶいてみる。
マシュマロ男子万歳。

ところで、料理へのこだわり、となるとまた話が混雑する。
大体、多くの人は料理をしないし、食に関してもそれほどこだわりがない。
しかし、というべきか、故に、というべきか単純な「料理」に関しては色々と紛糾することとなる。
つまり「卵かけご飯をどう作るか」である。

「卵の白身は分けるべきだ」という隔離主義者がいれば、「卵の白身と黄身をよく混ぜるべきだ」という同和主義者や、「卵の白身と黄身を混ぜ過ぎないべきだ」という多文化主義者がいる。
(白身だけ固まるくらいにレンチンすべきだというグルメ気取りもいる)

その他、「卵を直接ご飯の上で割る」「卵は小鉢で醤油と混ぜる」「小鉢で混ぜるが醤油は卵をご飯にかけてからかける」などなど、細分化されている。

一見こだわりがなさそうな人が、卵かけご飯に関しては熱く持論を展開するから面白い。
見た目からその人が「どんな卵かけご飯を作るのか」を予想するのはとても難しく、世界中の学者が頭を悩ませている。(これをTKG予想と言う)

これは海外でも同じなのだろうか。
アメリカではトーストに何を塗るかで喧々囂々の騒ぎとなり、イタリアではパスタに何をいれるかでみなが侃々諤々であろう。

最近、TKG予想がついに解かれたとの報道が世を賑わしている。
AIが顔写真から卵かけご飯の作り方を予測する日も近い。


追伸:
余談になるが、僕の卵かけご飯の作り方は「ごはんに醤油をぶっかけ、上に卵を落として軽く混ぜる」やつである。
また、僕の一番好きなトーストは「スキッピーのクランチピーナッツバターを厚塗りして、上からブルーベリージャムをいっぱい塗る」やつである。
後学に活かして頂きたい。

せっかくだから食べ物つながりで一緒に読む→「クワイ」

2017年12月18日月曜日

郵便局

思えば父に頼まれごとをしたのが間違いだったのだ。
「散歩ついでに郵便局に行ってきてほしい」とかなんとか。
夕食後にごろごろしているところに言われたので面倒ではあったが、帰りにコーラでも買ってこようと思い、家を出た。

今日は寒いことには寒いが、風がそれほどないのでまぁ歩けないこともない。
歩いているうちに体も温まるだろう、などと考えて川沿いをぽつぽつと歩く。

暖かい時期ならば川沿いの散歩道には、この時間でも何人か歩いている人もいるものだが、とんと寒くなった今日この頃においては、僕を除いて他に人の姿は見えなかった。
「暖かければなぁ」と思っては、横目に猫などを茂みに探すが、毛玉の一つも転がってはいない。

散歩道は暗いが、オレンジ色の街灯が縄張りを持って等間隔に並んでいる。
オレンジ色に顔が照らされる、暗闇に漬けられる、また照らされる、漬けられる。
なんとなく美容に効果でもある気がして来る。
そんなことを考えているうちに郵便局が見えてきた。

なんなのだろうか。入った途端に肩を落とす。
郵便局にはすでに10人近い人間が列をなしている。
みんな暇なのだろうか。
いや、忙しいからこんな時間に郵便局に並んでいるのだろうか。

客は多いが局員はその半分もいない。
このまま客が待ち列の長さに憤って暴動を起こしたら郵便局はすぐに制圧されるだろう。
と思い心配になる。
心配になりながらこの文章を打っているので、乱文などは許して欲しい。

もし明日になっても消息がなければ、僕は郵便局の暴動に巻き込まれて、革命の勇として郵便局に立てこもっていると考えてもらって相違ない。

2017年12月17日日曜日

休日の成果

今日は休日であった。
休日というのは不思議なもので、ゆっくりしようと思った時に限って予定が入って来て、何か行動しようと思った時に限って何もしないうちに夜が来る。

とりあえず前の記事で宣言したように、朝は7時のアラームで目が覚めた。
何も用事がないのに7時から目覚めるとは、なんと自分を褒めようか。
これは規則正しい生活への第一歩だと心の中で勝利のポーズを取る。
そうしながら布団の中でアラームを止め、Twitterを開く。

その瞬間、僕は時空を飛んだ。
原因は分からないが、何か時空の裂け目に巻き込まれたか、布団の温もりに巻き込まれたのだと考えられる。
気がつくと時計は8時を回っていた。半分くらい回っていた。

このままでは再び裂け目に巻き込まれかねないため、急いで布団を抜け出す。暖かい布団が別れの寂しさからか、へたへたと崩れ落ちる。後ろ髪を引かれる思いとはこういう時に使うのだろう。
リビングに行く。ちょうど出かけるところだった母に窓の結露を取る仕事を託される。
その前に何か空き腹に入れようと思ったところ、机の上に3本入りのみたらし団子が1本だけ残されていた。昨日見た時は2本だったが、僕が1本食べた後に確認したら、残り1本に減っていた。「朝まで残っていたので食べても良いだろう」と推理して、最後の1本を食べる。
辛い思いも特にないのに(強いて言えば布団への回帰願望だけ)、団子が喉をなかなか通らなかったので冷蔵庫にあったゼロカロリーコーラで流し込む。
こういう時にゼロカロリーコーラは液体なので便利である。みんなも冷蔵庫に一本常備しておくと急な窒息死の危機にも対応できる。

団子が喉元を過ぎたので、熱いシャワーを浴びる。
適当な服を着て、適当に読みたい本を持って外に出た。
家を出ようか迷っていると、どんどん外出しようという思いが減衰していく。それを恐れ、特に用事もないのに家を出た。
しかし困った。特に用事がない。
仕方がないので、なんとなく栄に向かう。
別に栄に用事もなかったため、なんとなく久屋大通で降り、改札の目の前にあるロッテリアでコーヒーを注文した。
ちびちびとブレンドを飲みながら、持ってきた本をぺらぺらとする。
すぐ近くにあったので『食べる人類誌』を持ってきた。
時々思い出したように紙にメモをして、またぺらぺらを続けていく。

そんなこんなで時間が経ち、お昼が近くなったためだろうか、気がつくと異国の言葉を話す人々に僕の席が取り囲まれていた。
昼時にコーヒーで長居するのも申し訳ないと思い、本を閉じカバンにしまう。
さて、行くあてもない。仕方ないからブックオフに向かった。

ブックオフでは本を一冊も手に取らず、ずっと中古家電と中古玩具を見ていた。
「こうなってくると、ブックオフだかリサイクルショップだか分からんな」と思ったが、そういえば自分はリサイクルショップが大好きだったと思い出した。
よくわからないボードゲームがあったので買ってみる。
『Ultimate Golf』というゲームで、グーグルしたが日本語のレビューは見つからなかった。リサイクルショップはこういう宝探し感があって良い。
こうして家によく分からないものが増えていく。

荷物が重くなったので一度帰宅。
YouTubeを見たり本を読んだりカレーを食べたりしてるうちに夕方になる。
彼女から仕事終了の連絡を受け、再び栄に向かう。
僕は人の服選びを大喜利だと思っている節があり、あれこれ着てるのを見ては色々なものにたとえて楽しんだ(寒中水泳の後の人、弥生人)

その後、スカイルの上のレストランを初めて訪れ、唐揚げを食べ過ぎて口の中を火傷した。急いで食べるから火傷するのだが、急がないと冷めるため、食事とは火傷前提の行為だ。ポテトチップスも食べすぎると口の中が荒れるが、口の中に入れないとポテトチップスを食べられないので、これも口が荒れる前提の行為である。
食とはハイリスク・ハイリターンである。
食によって肥満になったり火傷したり口が荒れたりする一方で、食べれば美味い。

食べたら眠くなったのでほどほどに解散して、地下鉄に乗った。
そして今こんな文章を書いているのだが、そろそろまた時空の裂け目に飲み込まれそうなので、今日はこれくらいで筆を置きたいと思う。

久々(初?)に日記っぽい記事となった。

2017年12月16日土曜日

休日の計画

明日(日曜)はなんの予定もない。
基本的に土日は予定を詰めてしまうので、久々にフルで一人の時間をエンジョイするチャンスである。
だが、しかし予定のない日、というのはどうも活用し難い。

少し長く寝てしまうと、目覚めてごろごろしてるうちに昼になる。
昼になったから、出来合いのもので丼でも作って腹を満たす。
腹が充ち満ちることにより、瞼の皮が下へと引っ張られ再び布団でごろごろする。
そうしているうちにうつらうつらとして、そんなことを繰り返したらいつの間にやら夕方になっている。
家族が帰ってきて夕食を食べ、テレビなど見ながらくつろいでいるうちに夜が更ける。
明日から1週間が始まるから、と言って早めに布団に入るものの、スマートフォンを執拗に触り続け日をまたぐ。

下手をすると休日をこのレールに乗せ一日を終えてしまいがちである。
老人よりも老人らしい生活だ。うちの祖母の方が矍鑠としている。
しかし、読みたい本なども溜まっている。それはもう本棚から溢れんばかりに溜まっている。

というわけで明日は一念発起し、7時くらいに起きて優雅に一日を送ろうと思う。

2017年12月15日金曜日

イノシシ

昨日、トリだのサルだの言っていたが、今日はイノシシの話である。
僕の研究室とは何の関係もないのだが、学部の方でセミナーが開かれていたので少し足を運んでみた。
基本的にこういうセミナーは誰でも参加できるのだが、大体は主催している研究室のメンバーしか参加していない。
一応、居室を出て行く時に同期に声をかけてみたが、「興味がない」と率直に断られたので一人で向かった。こういうセミナーに自主的に参加するとは、僕はなんとも立派ではないか。一体みんなは何をしているのだ(きちんと研究をしている)。

部屋につくと案の定で、主催研究室とその近所のメンバーしかいなかった。
ちなみにテーマは「ブタになったイノシシ」である。
僕の研究とはほとんど被らない。正直に胸に手を当てて言うならば全く被らない。

農大出身のベテランの先生(おそらく60歳はゆうにこえている)が、イノシシの家畜化について生物学的、というより民俗学的な角度から色々と紹介してくれた。

その中で印象に残った話があるので、今日はさらっとその話を終えて華金を満喫したい。具体的に言えば布団の中でぬくぬくと惰眠を貪りたい。

まぁとにかく、スクリーンに新しいスライドが映された時、「人工授精」という題字と共に二枚の写真が載せられていた。
一枚は牛から人工授精用に精液を採取している写真である。前にも何回か教科書で見たことがあるシーンだ。
牛の人工授精こそやったことはないものの、直腸検査の練習はやったことがある。ホカホカしていた。ただ一名、穴を間違えていた彼は元気だろうか。

さて、問題はもう一枚の写真だ。
そこには灰色の羽のある生き物がいた。
まるで鳩だ、いや鳩だ。
しかし、鳩と人工授精にどんな関係性が?
鳩の人工授精も出来なくはないだろうが(僕も鶏でやっていた)、わざわざ鳩を選んで載せる意味もわからない。
そう頭を悩ませていたが、先生はちゃんと説明してくれた。

「昔はですね、精液を冷凍する技術もなかったのですね。ですので、伝書鳩に精液を載せて運んでいたのです」

なんということだ!!
知らなかった!!かつては牛の精液が空を飛んでいたのだ!!!

僕はそれにとても興奮したのだが(性的嗜好ではない)、そのせいなのか残念なことに他の話はあまり記憶に残っていない。
とりあえず「空飛ぶ牛の精液」を知れたのだ。貴重な研究の時間を割いてまで、わざわざセミナーに参加した甲斐はあった。

みんなも是非、学内でセミナーが開かれた際は参加することをお勧めする。


追伸 : 「うしのせいえき」で予測変換したら「芦名星駅」という素敵な駅になったことを報告しておきたい。

2017年12月14日木曜日

サルゲッチュ

今年も残すところ僅かとなった。
今年は自分にとって3回目の酉年であったため、年男としての重圧に負けそうになったが、無事に年男を務めきったことを褒め称えてくれても構わない。
酉年生まれの名に泥を塗らぬように慎重に行動していたため、特に何もしないままに2017年は終わろうとしている。僕の一年という尊い犠牲のもとに酉年の名誉は守られた。

ところで干支といえば、去年、僕がずっと情報公開を待ち続けたゲームがある。

「サルゲッチュ」である。

申年なのだから、ついに待ちに待った新作が公開されるだろう。いや公開されるに違いない。公開されると告知もあった気がする(そんなものはない)。いつ公開されるのだろう。
首を長くしているうちに2016年が終わったため、僕の首は伸びきり、何の獲物も咥えないままに巻尺のように5等身の身体へと引き戻された。

「サルゲッチュ」は初代プレーステーション(何もつけずにプレーステーションと言えば初代を指すと思うのだが、聞き返されることが多いため、不服ながら初代とつける)で発売された「サルを捕まえる」という至極単純なゲームである。
もっと詳しく言えば、ピポヘルというヘルメットを被ったせいで知能の上がったサル「ピポサル」を捕まえるゲームである。
プレーステーション世代では「パラッパラッパー」や「どこでもいっしょ」、「クラッシュバンディクー」と並ぶ立役者的なゲームで、マクドナルドのハッピーセットでもピポサルのおもちゃが貰えたような記憶がある。
(以上のゲームが分からない方は世代が違う可能性が高い)

これだけプレステのサルゲッチュを推していたところで申し訳ないのだが、自分はプレステ2の「サルゲッチュ2」からの中途入学者である。
にわかだと思って石を投げてもらって構わない。

サルゲッチュ2は当時の自分には少々難易度が高く、全クリまでには割と根気が求められた(初代サルゲッチュよりは簡単らしいが)
サルゲッチュはそこからさらに広がり、「サルゲッチュ系統」と「サルバト~レ系統」に分かれていくことになる。
(サルバト~レの発売は2004年の申年である)

どちらの系統にも言えるのだが、サルゲッチュは細かいところが凝っている。
サルのプロフィールの全てに笑いを仕込んでいたり、ミニゲームの難易度がやたら高かったりする。
なんというか「おまけ要素」への力の入れ方がものすごい。

サルバト~レではキャラごとにプレイ成績でおまけムービーが手に入るのだが、それもそのキャラクターに合った世界観のショートムービーが作られていて、日常風、サイバー風の他、実写ムービーまである(当時は儲かっていたのかもしれない)
中でも自分が好きなのはピポトロン(正体不明のピポサル)ストーリーで入手できる「アメコミ風」ショートムービーである。サスペンス?ホラー?な要素が入れられたムービーに、まだ当時小学生だった僕はノックアウトされ、その後の人格形成に大きな影響が生じた。

というわけでニコニコのリンクを貼っておくので是非それだけでも見てほしい。

余談になるが、サルバト~レの4人対戦を友人と究めすぎた結果、「ゲームバランスが悪すぎる」という理由で勝負にならない事態に陥った。
しかし中々に面白いので、気になる方はサルバト~レを入手し、プレ2コントローラを4つ用意し、プレ2のコントローラ分岐パッドを準備して是非プレイしてほしい。

合わせて読みたいゲームの話
ちびロボ!
ジャックxダクスター


2017年12月13日水曜日

没入

最近になって思ったのだが、楽しいイベントに参加することよりも、イベントを楽しむことの方が簡単である。
逆に、楽しくないイベントとは自分が楽しんでいないイベントなのではないか。

とここまで読んだところで、「今日もただの言葉遊びかよ」と思った方がいるだろう。
安心してほしい。僕も書いた文章を読んで「今日もただの言葉遊びかよ」と思った。

しかし、余程合わない(生理的に無理、許容出来ない内容、宗教的教義に反する)のでない限り楽しんでしまった方が良いと思う。
なぜなら、単純にお得だからである。
なんだか今日はライフハックになるかもしれないから、最後まで読んだ方が良いと思う。
なぜなら、単純にお得だからである。

誤解を恐れるので初めに言っておくが、「つまらない」イベントに参加したのはしばらくのところない。どれも楽しいイベントであったが、それに振りかけるスパイスだと思って読んでほしい。こうして保険を掛ければ糾弾されないと学校で教わった。

まず、「楽しもう」とするのに特別気合を入れて頑張る必要はないと思う。
ただ、「少し大げさにやる」だけでいいのだ。
「拍手をいつもより少し強めにやってみる」とか「普段は言わないけど今日は少し歓声をあげてみる」とか「いつもより数ミリ口角を上げてみる」とかそんなくらいで良い。
これは一種の「儀式」であり、イベントという非日常空間に入り込むスイッチなのだ。

完全に個人的な話になるが、ライブでは軽くリズムに乗りながら聴いているのが好きだ。
ただじっと座って聞いているよりも、少し揺れていた方が、自分もメンバーの一人として音楽を作っているような没入感がある。
これはライブに限った話ではない。
イベントは主催者だけではなく、観客も(ある程度)一緒に作っていくものなのだ。
そうすることでイベント自体もより盛り上がるし、イベントが終わった時に観客側にも達成感が残ると思う。
なお、これは個人の意見であるので糾弾するのは避けてほしい。

ちなみに、「少し大げさにやる」の「少し」の部分は重要である。
この儀式を激しくやりすぎるのはやめた方が良い。
なぜなら、単純に嫌われるからである。
不自然な程に度の過ぎた煽りやコールは「イベントの私物化」である。
イベントはあくまで「主催者と観客」で作るものであり、誰か個人のためにあるのではない、という事を謙虚にいつも心においておきたい。

最後になるが、今度ライブなどイベントに参加することがあれば、是非「少しだけ」イベントのビートに乗ってみることをお奨めする。
なぜなら、単純に楽しいからだ。


【合わせて読みたいライフハック】
大掃除

2017年12月12日火曜日

手記「多重夢について」

--どうやらここのコンピュータは正常に動くようだ
--メールボックスにメールが届いている
--何も書かれていないが、ファイルが添付されている

----添付ファイルを開きますか?
--open

文書ファイル : 手記「多重夢について」
作成者 不明 作成年 不明

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この手記を読んでいるということは、僕は夢からの脱出に成功したということだろうか。
それともただこのメールだけが……そうでないと願いたい。
ここに記すのは、僕が多重夢を何度も繰り返す中で編み出した一つの答えである。
もしかすると、これは一つの対抗策になるかもしれない。あるいは……

夢を繰り返す中で気がついたのはある相同性であった。
僕がこの世界……おそらくは僕の夢の中で起き上がり、行動を取ろうとするたびに世界はリセットされ、僕は再び初めの地点……つまりは布団へと戻される。
この状況を単純化した時、僕は行動を制限されているということになるだろう。
これは体の自由を奪われた状態である。
これはいわゆる金縛りという現象と似通っており、一種の相同性がここに見出された。

ならば、この多重夢を抜けるには、金縛りを解く必要がある。
夢の中で金縛りになっているのか、それとも現実で金縛りになっているのか、それは現時点……このメールを書いている時点で明確な答えを出すことはできない。
しかし、仮に夢の中で金縛りになっていたとしても、睡眠中の体を自在に動かすことはできない。そのため今動けない状態が夢か現実かということは大きな影響を及ぼさないだろう。

まず、なすべきは自身の状況の把握である。
すぐに起き上がろうとせずに、身体に意識を向けよ。
そして身体の感覚に違和感があったならば、無理に身体を動かしてはならない。
少しずつ、あくまで少しずつ動くべきだ。まずは腕……いや指先からだ。

この意識のコントロールが夢と現実をパンフォーカスにしてくれる物だと期待したい。
これが上手くいけば……

-------------------

手記はここで終わっている。

2017年12月11日月曜日

クワイ

今まで生活の中で全く意識していなかったものが、ある日を境に立て続けに目に飛び込んでくることがある。
「え!すごい偶然!」
と思ってみるが、実のところ普段から身の回りに頻出していたものに、ちゃんと目を向けていなかっただけだったりする。

そんな物の中で、この時期になると決まって思い出すものがある。

クワイである。

ある日、友人に買い物に誘われた。
「今度柳橋に行くんだけど、行かん?」
なんでも家族で年末年始の料理の材料を買いにいくらしい。
せっかくなので僕もついて行かせてもらう事にした。
早朝、友人の父の車で柳橋に向かう。
僕は友達とゲームや漫画の話をしながら、少しばかりのドライブを楽しんでいた。

友達の家から名古屋駅まではそれほど遠くなく、30分もしないうちに柳橋の近くまでやってきた。
「そういえば今日は何買うん?」
僕はふと思い浮かんだ疑問を友人にぶつけてみた。

友人は外を眺めながら、
「んー、まぁ値段にもよるけど魚とか昆布とか」
と返してきた。
その時、友人の母が会話に入ってきた。
「あとはクワイとかね」

KUWAI....??

僕の頭に疑問符が連続タップされる。
(クワイとはなんだろうか、そんな物は聞いたことが無いぞ)
頭の中で様々な考えがポップコーンメーカーのように飛び跳ねた。
(クワイとは食べ物なのだろうか、それとも年末年始に使うしめ縄的なサムシングなのだろうか...)
しかし、そんな物なら今までに聞いたことがあるはずだ。
逆に奇異な習わしであるなら、当然のように自分の前でクワイなどと言わず、もっと人の目を忍んで内々で取引をしているはずである。

(あっ、そうだ!)
僕は思いついた。
(きっと聞き間違いだったんだ!)
思いついた最大限の解決策であった。

「あークワイも毎年使うしね」
僕がひねり出した「聞き間違え案」は友人の返答によって棄却された。

困った。どうやらこの世にはクワイというものが存在するらしい。
このままでは「クワイも知らない世間知らずの田舎者」の烙印を押されてしまう。
それから僕は「あー知ってるよ、クワイね」という態度を取り、なんとかその場を凌ぎ切った。

僕はそのクワイ事件から一週の間にクワイという文字を3度見る事となった。
僕は驚嘆した。
なんということだろうか!クワイはこれほどに世の中に溢れていたのだ!!

僕は憤った。クワイという名前をしておきながらなぜ芋なのだ。
里芋も山芋も薩摩芋もちゃんと芋と名乗っているではないか。
芋を名乗らないのはキャッサバ君ぐらいのものである。
外国かぶれも甚だしい。
芋とついていたならば、僕も「はいはい、芋ね」と振る舞えたではないか。

しかし、それから10年ほどたちWikipediaをふと見てみたら、「桑芋」又は「河芋」が転じたという説を目にした。
なんということだ、「クワイ」はあだ名だったのだ。
僕はあだ名をつけられただけの芋を不当に迫害していたのだ。
僕は謝罪の意を込めて今日の記事を書くに至った。

僕は君の事を誤解していたよ、クワイ。
24年間食べたことがないけれど、いつか食べてみようと思うよ。

2017年12月9日土曜日

夜の散歩

夜の散歩をした。
というかやむにやまれず、本山から自宅まで1時間半弱の道のりを歩いた。
時刻は午前2時、丑三つ時のことである。

後輩の家から自分の家の方角へと路地を抜けて行く。
坂道を登るのを避けるように道を選んだことが災いし、気がつくと丑三つ時に墓地のど真ん中を抜ける蛮勇と化していた。
夜の墓地は静かである。というかこの時間は街全体が静かである。
この辺りは墓地が多く、結局しばらくの間、墓地を抜けたり墓地に入ったりを繰り返しながら家を目指すことに相成った。
特に妖怪幽霊の類に遭遇することもなかったため、こうして文章を書くことができているが、散歩して行く中で一箇所どうしても怖いところがあった。

それは墓地ではなく、墓地を抜けてしばらく住宅街の中を歩いていた時のことだった。
夜の街というのは、昼間とは全く違う街並みに見えるから面白い。
今日はあまり通らない千種の方に抜けていこうと歩いていった。

学校らしい建物の横の道を通って行く。
しばらく学校らしい建物が続き、その隣に見た目のよく似た ているが、会社か病院かそんなような建物があった。
建物の窓から中が見える。
廊下は少し赤みがかった薄暗い蛍光灯で照らされている。
なんだかその建物を見てるうちに、ぞっと怖くなった。
説明は出来ないが、その廊下の感じがひどく不気味であった。
ずっと見ていたら、いつしか建物の中に入り込みそうな、そんな雰囲気があった。

それからも怪しいおばさんや、猫トラップを回避しながら帰宅した。
昼と姿の違う街を楽しむは夜の散歩の醍醐味でもあるが、なんとなくあそこの建物はもう見たくないと思う。

2017年12月8日金曜日

蠢き

歳をとるにつれて怖いものが減った。

夕闇の街が怖かった。
人がどこか遠い存在に思えるからだった。人の顔が見知らぬものに見えるからだった。

押入れの暗さが怖かった。
知らない場所に繋がってるように感じるからだった。おしいれのぼうけんを読んだからだった。

夜中に一人で起きて行く便所が怖かった。
なんだかこのまま一人きりになってしまう気がするからだった。

僕が恐れていたものはもういなくなってしまったのだろうか。
いや、まだいる。どこにでもいる。

ビルの柱の暗がりに、工事現場のシートの隙間に、点滅する蛍光灯の下に。
路地に佇む人影に、木葉の痛いほどの静けさの中に、

2017年12月7日木曜日

モーガンフリーマン

自分と違う国の人を見分けるのは難しい。
特にアジアを離れると非常に困難になる。
お陰でクリス・タッカーとウィル・スミスの区別がつかない。
ジャッキー・チェンと一緒にいないとクリス・タッカーだと判断できないので、今後ジャッキー・チェンとウィル・スミスが共演したらどうしようかと悩んでいる。
そんな中(エディ・マーフィーも分からないのだが)で唯一分かるのがモーガン・フリーマンである。

モーガン・フリーマンが映画でどんな活躍を見せているかについては、あまり詳しくない。恥ずかしながら、『ショーシャンクの空に』も『ディープ・インパクト』も観たことがない。唯一『ハイ・クライムズ』だけはなぜか観ている。面白かった。

そんな僕がモーガン・フリーマンを毎週見るようになったのが、NHKでやっている『モーガン・フリーマン 時空を超えて』という番組である。
みなさんご存知だと説明が楽なのだが、もしかすると知らない人がいるかもしれないので、説明しておく。
これは「神は存在するか」「この世界は現実なのか」と言ったテーマに関する先進的な物理学や化学・生物学の科学研究を紹介する番組で、非常に面白いので毎回録画して夕食の時に観ている。
最近観た回の中では(録画なので少し前だが)、菌を操って椅子を作る話が面白かった。

その番組で毎回欠かさず僕が注目している部分がある。
番組はモーガン・フリーマンによるその回のテーマの紹介から始まる。
一連の流れを説明すると、
「私たちは普段○○と思って暮らしています。○○は××であると。しかし、本当にそうなのでしょうか。実はそのことに意義を唱え、それを証明しようと研究をする研究者がいます」のような導入から大抵の回は始まる。

そして「△△大学の▷▷学者▲▲は▶︎▶︎について研究をしています」といって研究者のVTRが始まるのだが、その二つの間に必ず挟まる話がある。

それは「私は子供の頃、よく□□をしていました」というモーガン・フリーマンのエピソードで、それがテーマにきれいに沿ってVTRへと繋がっていく。
これを観るたびに思うのだが、一体どれだけモーガン・フリーマンは子供の頃のエピソードが多いのだ。毎回毎回、テーマに沿った話がぽんぽん出てくるのだから相当である。
もしかすると、それだけエピソードの多い人間だからこそ、モーガン・フリーマンは名優たれたのかもしれない。
僕もエピソードの多い生活を送り、名優たりたいところではあるが、最近は「カバンの中でみかんが潰れた」くらいしか人に話す話題がないので、今回はここで筆を置きたい。

2017年12月6日水曜日

一番近くにいるのに見えない大切な存在

眼鏡である。
今日は眼鏡の話をするから素敵な恋愛の話を期待した恋に恋する妙齢の少年少女には読む価値がない。なので読むべきではない。
しかし、僕にとって眼鏡はなくてはならない大切な存在であるが故、僕は倫理道徳上の理由からも眼鏡に恋すべきなのかもしれない。

朝、目が覚める。
精緻に語るのであれば、けたたましい目覚ましの音で叩き起こされる。
起床して最初の感情が殺意になるのは精神衛生上良くないが、、そうしなければ起きられないので仕方がない。まぁそれはどうでもいい話である。

ぼやけた世界の中で枕元をぽんぽんする。
すると大体いつもぽんぽんするところに眼鏡が待っていてくれる。
もし、僕がぽんぽんしたところに眼鏡がなければ、僕は一日を送ることが出来ない。
食事ぐらいは出来るが、とても学業に勤しむことは出来ないだろう。
出来るもしれないが、出来ればしたくないのだ。
それほどに僕にとって眼鏡は必要不可欠な存在で、それほどに僕の視力は悪く、陸に上げられた魚程度しかない。現に口もぱくぱくしている。

最初に眼鏡をかけたのは小学五年生か六年生の頃だったと思う。
それまでも目は悪かったため、目を細めて生きていた。
そのせいで目が細くなった。これが進化というものである。
だが、流石にこれ以上目を細めると目が開かなくなるため、眼鏡をかけるにいたった。

眼鏡に慣れるのも大変だったが、僕 with 眼鏡を周りに慣れさせる方が困難に思えた。
当時の担任は「自然としていれば、周りもすぐに自然に思う」と言っていた。
しかし、慣れるまでに少しでもタイムラグがあるのが嫌なのだ。
子供にとっての一瞬は一生に等しい。
嘘である。しかし、1週間くらいには感じる重さがあったような気がする。
そして嫌々ながらも眼鏡のまま教室に行き、案の定いじられたが、それから十と数年の間、眼鏡をかけつづけて生きている。

大学の頃は眼鏡をつけたまま寝落ちしてしまう日々が続いていたので、よく眼鏡が歪んだ。
特に鼻当てのあの異様に細い金属がよく曲がった。
仕方がないので鼻当て部分がフレームと一体化した丈夫な型の眼鏡にした。
今度は鼻当ての調整が出来ないせいで眼鏡がよくずり落ちる羽目になった。
結局、今は鼻当てにシリコンパッドをつけて使っている。
これは概ね快適だが、2ヶ月くらいで剥がれてくるのでまた買ってつける。
面倒だが、快適な眼鏡との生活には欠かせないのだ。

これから僕が死ぬまでの間、毎日眼鏡をつけて暮らすとなると心配になってくる。
眼鏡が手に入らなくなったら、一体どうすればいいのだ。
具体的に言えば、僕の家の近くの眼鏡市場がなくなったら、どうやって生きていけばいいのだ。
向こう数十年分の眼鏡をストックしといたほうがいいのではないか。
そう戦々恐々としながら、僕は枕元をぽんぽんして生きている。

2017年12月5日火曜日

頭重

これは悩みの話であるから、悩みに興味のない方は読むのに時間を使わない方が良い。
非常に頭が重い。
正確には重くなりがちだ。

確かに僕は元々頭が大きい方で、重いのもしょうがないとは思うが、味噌どころか石でも詰まっているのかという重さな気がする今日この頃である。
朝から午前中の間はまだ軽いような気がする。
ただ、昼飯を終え、おやつを終えた頃になると頭が重くなってくる。
頭が重くて、文章を読むような集中力を要する作業などやっていられない。

もしかすると、これはいわゆる「頭痛」というやつなのかもしれない。
おそらくは肩凝りと首の凝りがが原因だと思うのだが、最近さらに重い気がする。
おそらく、というかほぼ間違いなく、それはどうぶつの森のやりすぎである。
このままではどうぶつの森を気持ちよくプレイするために学業を犠牲にせざる得ない。

僕は学業に熱心な学徒であるからして、僕は今日から首を鍛える事にした。
首のストレッチと首の筋トレをするのだ。いや、するしかないのだ。
せねば、どうぶつの森が出来ぬのだ。
首がむきむきになった僕を乞うご期待である。

2017年12月4日月曜日

名峰マウンテン

名古屋には山がある。
その名を喫茶マウンテンという。

大学から約一駅と少々のおつりを歩くと看板が見えてくる。
雪の残る山に赤い文字で店の名前が書かれている。
駐車場には千葉や神戸など日本各地から来た車が停められている。
ここは名古屋の名峰なのだ。

ある人は「食への冒涜だ」と憤り、ある人は「普通のメニューは普通」と意味のわからぬ事を言う。僕にとってここはレジャーでありスポーツであり、まさに山だと思っている。

名古屋に住む人間のほとんどが知っていると言っても過言ではない(かもしれない)、この店の看板メニューこそがあの悪名高き「小倉抹茶スパ」である。
小倉は美味い。小倉抹茶も明らかに美味いだろう。だが小倉抹茶スパはどう考えても美味しくはない。そして実際美味しくはない。
抹茶の「粉」を混ぜ込んだであろう熱々のパスタ。
その上に無残にもかけられた生クリームとあんこ。
そして何故か更にその上に乗せられた果物。
一見美味しそうには見えないのだが、食べてみると驚くことに美味しくない。
ただ不思議と(ぎりぎり)食べられないことはない。
そのため残す事が罪悪感となり、人はなんとかこれを食べきろうとする。
これを人は「登山」と呼ぶ。

正直に告白すると、僕は昔からこの山に憧れていた。
その名前を初めて聞いた時、僕は「奇食の館」というホームページに辿り着いた。そこに載せられていた百鬼夜行の皿々に僕は魅せられた。
そして大学に入った僕は、晴れてマウンテンに連れて行かれる運びとなった。遭難しかけながらも山を登り切った。山頂から見た景色は別に綺麗ではなかったし、晴れやかな気分でもなく、むしろ気分は悪かった。

それからも何度も僕は山を登った。
何故、そんなに辛い思いをしてまで山を登るのか。
「そこに山があるからだ」
そう先人は言葉を残した。

だが、時が流れるにつれ僕は山に登る事が減った。
そしていつしか、僕は山に登らなくなった。

悩み考えた
「何故山に登らないのだろう」
いや、むしろ
「何故山に登っていたのだろう」
そして気づいたのだ。
僕は見たかったのだ。
山に登った事がない者たちが苦しみながら登山をする姿を。

というわけで今度誰かを連れてマウンテンに行きたい。
大人しく連れて行かれそうな人間を探している。

2017年12月3日日曜日

迷子

辞書によれば迷子とは「道が分からなくなること」「連れとはぐれること」を指す。
自分が迷子と言う時は主に後者のことである。
散歩が好きで、特に狭い路地の方に好んで進んでいくため、よく道は分からなくなるのだが、あまり迷子という感じはしない。
やはり迷子とは親や友達たちなどからはぐれ、一人きりで寂しく途方に暮れることに相応しい言葉であると思う。

迷子になった記憶で一番思い出深いのは、いつかの夏のことだったと思う。
まだ年端もいかぬ頃の話、おそらく幼稚園の頃だった。
途方に暮れていたのだ。
視界には人が何人も行き交っているが、そこに知った顔は一つもない。
右も左も分からず、このままずっと一人きりなのではないかと不安になった。子供の感情というのは振れ幅が大きいもので、僕もまた寂しさで胸が苦しくなり、眼からはいつの間にか涙が溢れ出ていた。
ただ一人でいることが寂しく、不安で、恐ろしく、そしてどうしようもなく悲しかった。


確かに母に「タコを見に行く」と言ったのだが、何故か合流が出来なかったのだ。
僕は薄暗い廊下でめそめそと泣いていた。もしかすると、わんわんと泣いていたかもしれない。
そこは水族館だった。
幼き僕の不安・悲しみ・恐怖は推して知るべし。

それからどうなったかだが、なんとかなったので20数年経って文章に起こしている。
(余談だが当時の名古屋港水族館は全区域にアナウンス放送を流すことが出来ず、色々と大変だったようだ。現在もそうかは不明)

いまでも時々迷子になりそうなことがある。
寂しく、恐ろしく、悲しい感情に襲われることがある。
はぐれかけた自分をなんとか合流させ、それを何度も繰り返しながら、僕はぼちぼちと道を歩いている。

2017年12月2日土曜日

夜明け前の藍色

初めて徹夜をしたのはいつだろうか。
いや夜通し遊んだ時は、だいたい明け方に帰宅した後に寝てしまう。もしかすると完璧に文句のつけようのない徹夜というのを、僕はこれまでしたことがないかもしれない。

始発の電車に乗る。
始発というのは曲者で、早くホームに着きすぎると電車が来るまでの間が辛い。寝ずに夜を越した後の待ち時間は本当に辛く、この時期はさらに寒さに凍える羽目になる。
かといってギリギリの電車を狙って外すと、次の電車まで早朝のすかすかなダイヤを恨みながらやはり凍えることになる。
そのため、大抵は始発に向かって軽く小走りをしなければならなくなる。すでに停止寸前の体に鞭を打つと、膝や腰の関節がきしんでぎこぎこと音がする。

始発の電車にはこれから活動を始める眠そうな人と、これから活動を終える眠そうな人がいる。見分け方は、後者の方が顔に滲む後悔の色が濃い。そして髪に寒サバくらい脂が乗っている。
座れば眠りそうになり、立っていれば疲れで目眩がする。
この時ばかりは電車に乗っている時間がとても辛い。

ただ一方でこの時間に外を歩くのが僕は結構好きだ。
夜明けと夕方は一見すると似ているが、実のところ大きく違う。
空は黒に近い深い藍色から、明度を増した鮮やかな紺色へと変わっていく。
この時の空の色は空気と同じように夕方よりもずっと澄んでいると思う。

空はどんどん明るくなっていくが、街灯は中々明かりを落とさない。
そのため明け方には明るい空と白い街灯の光が同居する。

街はすんと静かで、新聞を届ける音が遠くからでも聞こえる。
鳥の声、早起きした誰かの立てた物音、遠くでまばらに車が走る音。

そんな中を疲れがまとわりついた体で歩くと、少しずつ鉛のような疲れが幾分か心地よい疲れへと清められていく気がする。

帰ったら熱いシャワーを浴びよう。
そう思いながら、一日が始まる街を歩く。

2017年12月1日金曜日

ネタのない日の更新

ブログを更新するためのネタがない。
正確にいうとネタを思い出す余裕がない。

一体僕は何にせっぱつまっているのだろうか、何が大変なのだろうか。
優しい皆様におかれては「やらなきゃいけない仕事があるんだろうな」と思ってくださるだろうが、実際にはものすごく眠いのである。
1ヶ月の連続更新をこなして分かったのは、文章を書く仕事を後にとっておいてはいけない。なぜなら物凄く眠いからである。

基本的に僕は眠気を抑えて仕事をすることが出来ないのだ。
テスト前はいつも眠気に負け諦めてしまう。
本当のことを言えば、何か仕事がある時は眠気が増す。
そして、そういう時に全てを投げ打って諦めて惰眠に堕ちるのは最高である。

というわけで僕は最高の快楽を求めて布団にダイブするので、今日のところはここまで。
いっぱいねる。