2018年2月27日火曜日

野生の馬が絶滅していた話

やせいのうーまー やせいのうーまー やせいのうーまーはー

なぜー かーけーてーいくー(合唱:野生の馬


野生を失ってしまった。
さて、今日も野生味あふれる皆さん、いかがお過ごしだろうか。

先日こんなニュースが生物クラスタを賑わせた。


野生の馬はすでに絶滅していたことがDNA分析で判明 | 財経新聞 

読んでみてどうだろうか。
「なんか分かるようで分からない」
と思われたかもしれない。

「野生に生息していた野生種最後のウマだと思われていた馬」が「野生に生息していたが野生種でないウマ」だった、というようなことが書かれているのだが、何となく混乱するような話である。
しかも現在、野生では絶滅し飼育されている、というのだからより紛らわしい。
せっかくなので少し説明をしたいと思う。

まず今回テーマになっているのは「モウコノウマ」である。
モウコノウマは和名で、学名はプルツワルスキーという。

馬といえばサラブレットを想像する人も多いと思う。
あれはいわゆる「家畜馬」であり、人によって「家畜化」された馬である。
「家畜化」とは厳密にいえば、「品種改良をした」ということだ。

まず野生に暮らしていた馬の飼育を始める。
この時点ではまだ「家畜化」はされていない。
その後、他の立派な馬と掛け合わせて立派な仔馬を産ませた。
この「いい馬と掛け合わせていい仔馬を産ませる」ことが品種改良であり、これをもって「家畜化」が行われたという。
これを繰り返していくうちに、馬はもともとの姿と比べて、すっかり人に「都合のいい」姿に変化していく。背が高く、足が速く、健康な馬になり、人になつきやすくなったりもする。

こうやって人によって改良された馬が、「家畜馬」である。
そして人による改良を受けていない馬が「野生種の馬」なのだ。

つまり、記事の記述をかみ砕くと、「改良されてないと思った馬が、実は改良された後に逃げ出した馬だったよー」ということだ。

おそらく保全のためにモウコノウマを飼育していたが、明らかな「改良」は行っていなかったのではないか。たぶん自由に交尾させていたのだと思う。
なので今までは「飼育されている野生種の馬」だったのだ。

しかし、今回の研究結果によって、モウコノウマが野生種ではないことが判明した。
モウコノウマは現存する唯一の野生種(飼育されてはいるが)と考えられていた。
つまり、これをもって「野生種の馬」が絶滅したことになる。

そんなわけで、動物の数が減ったわけでもないのに、「絶滅」が起きた。
これは残念と同時に興味深いことでもあり、生物系クラスタが沸いたという次第だ。

今日は野生の馬に思いを馳せながら筆をおく。
みんなも思いを馳せながら野生の馬を歌ってほしい。
やせいのうまーやせいのうまー

2018年2月26日月曜日

早寝早起きをするための「仕方ない」思考

名古屋を覆っていた「今にも死にそうな寒さ」は心なしか和らぎ、「しばらくしたら死にそうな寒さ」くらいになってきた。
布団に包まりがちの皆様においては、いかがお過ごしだろうか。

最近、なんとなく自分の中で早寝早起きがマイブームになっている。
考えてみると、人は小学校の頃から中学高校大学に至るまで「早寝早起き」を標語にしているような気がする。
そして標語にしている割には、年を取るにつれて早寝早起きを達成するのが難しくなっていく。
そして会社員などに運よく就職できた者から再び会社のリズムに合わせた早寝早起き生活に戻っていくのである。

ただ、人のちょうどいい活動時間帯、というのは個人差がある。
朝がどうしても無理だが、深夜帯はばりばり働けるぜ!、という人は自分の無理のない時間帯に活動すればいいと思う。
ただ、一応自分も体内時計を研究している身であるため、「朝起きて夜寝る生活が体にいいですよ」ということは言っておかなければならない。
昼夜逆転を続けていると生活習慣病(糖尿病、肥満、心不全)にかかるリスクが上がるらしい。まぁ気を付けてほしい。メンもヘラりやすい。

さて、それで僕がなぜ早寝早起きをしたいかであるが、よもや健康のためと思ってくれるな。僕の中に流れるパンクスの血は、そんな甘っちょろい理由で早寝早起きすることを許しはしない。
以下に早寝早起きを目指す理由を羅列する。

・同じ睡眠時間でも早く寝た方が疲れが取れる(気がする)
(プラシーボかもしれないが、体をメンテナンスする成長ホルモンは22時~0時ごろに多いらしいから、本当かもしれない)

・14時を過ぎると集中力が尋常じゃなく下がる。頭を使う(割りに大好きと言い難い)作業は午前でないと手につかない。

・研究室から早く帰りたい。
(コアタイムは10-17時だが、先に帰るのは周りの目が気になる。気にする必要はないのだが、何となくストレスであるため、周りより早く来ることで早く帰る時の心理的ストレスを減らしたい)

・夜になるとメンタルがヘラる
(おそらく夜になると副交感神経が優位になるため、自己防衛反応からすべてを破壊したい厨二的衝動とニヒリズムがマッハ)

などなどである。
他にもあるが、要は「早寝早起きの方が(僕は)全体的に生活のストレスが低い」という結論に至ったためである。

だが、この早寝早起きというのが難しい。
ほんの少しのことで計画が崩れがちである。

布団に入ってスマートホンをいじっていると、そろそろ寝なきゃなーと思いながら1,2時間はすぐに経ってしまうし、朝の布団ほど気持ちの良いものはないのである。

こうした問題への対処であるが、僕は「仕方がない」と思うようにしている。
タイトルにもビジネス新書風に『「仕方ない」思考』というしょうもない表題が付けてある。

どういうことかというと、
「朝起きられない→僕は意思が弱い→樹海へ行こう」
ではなく、
「朝起きれない→まぁ仕方ないよなー」
と思うようにする、ということである。
潔い諦め思考だ。

だって朝の布団は気持ちいいし、タイマーで目覚めても、またすぐに寝てしまうのは仕方ないではないか。それを責めるのは人間生理を責めることだし不毛である。僕らの体はそうできているのだ。進化を恨め(創造論者は神を恨め)

だが、このままでは早寝早起きが出来ない。
そのため、なんとか頑張らなくても良い方法を試行錯誤しているところである。

≪傾向と対策≫

・夜にスマホをいじって眠れない
布団の中でスマホをやめられないのは仕方がないことである。
なぜなら横になっていると、一般的に人のやる気はだいぶ減る。
たぶん体が「休息」状態、副交感神経寄りになるため、気合を入れることが難しくなる。
仕方がないので充電器を机の上に移し、23時になったらスマホをそちらに移すことにした。

・朝起きて目覚ましを止めてまた寝てしまう
目覚めても布団の中でゆっくりしたら寝てしまうのは仕方がないことである。
だって気持ちがいいもん。
この問題は上の問題の対処で一緒に解決した。
布団からとりあえず出ることには成功したのである。しかし...

・机の上の目覚ましを止めた後にまた布団に戻ってしまう。
冬場は寒い。ゆえに布団に戻る。
これは真理であり、仕方がないことである。
対策として寝る時の衣服を厚めにして靴下も履いて寝ている。


以上が仕方がない現象になんとか立ち向かう僕の雄姿である。

「いや、普通に起きろよ」
と言われるかもしれないが、それが出来たら苦労はしない。単位も落とさない。
だが、少なくとも僕の場合はストレスレスな早寝早起きに少しずつ近づいている。

もし早寝早起きをしたいが出来ない、という方がいたら、樹海に行く前に「まぁ仕方ないよなー」とつぶやいてほしい。日々ツイートしてほしい。
その上で少しずつ早寝早起きに近づいて行って欲しい。

上に示した対策は「僕がストレスを感じない」方法である。
人によってはストレスを感じるかもしれない。
ちょうど良さげな落としどころを見つけていこう。ライフをハックだ。

一朝一夕で早寝早起きはならず!!
一朝一夕で早寝早起きできるあなたは素晴らしい!!
僕に朝食を作って!!!

2018年2月22日木曜日

怖い話の楽しみ方

世の中にはいろいろと怖いものがある。
直近では研究室の全員に参加が求められている卒業論文発表練習会をすっぽかしたのに気が付いたのが一番怖かった。ごめんなさい。

まぁ交通事故だの通り魔だの怖いものが多い中で、ついつい触れたくなってしまうものもある。
例えば僕は幽霊が怖い。
幽霊は存在すると思っているし、怖い話を聞くと眠れなくなったりする。
(科学的な存在はしないかもしれない)

しかし、どうしても好奇心によってついつい怪談を聞いたりしてしまう。
ただ、驚かせる系は怖い上に嫌いなので、お化け屋敷やホラー映画は苦手だ。

怪談は(語り手にもよるのだろうが)話自体が面白い。
普段自分が触れないような境界の向こうの話、というのは不思議でどこか神秘的ですらある。

そういえば、こないだ初めて怪談を聞きにいってきた。
「事故物件住みます芸人」を自称し、自殺や他殺の起こった部屋を渡り歩く松原タニシさんのトークライブである。
芸人さんということもあり、笑いどころも多く、それでいてじんわりと怖い話を幾つもして頂いた。

さて、こうした怪談、「怖い話」というのは二度楽しめると思っている。
まず話自体が面白く興味深い。
これが一つ目。

もう一つは自分の変化である。
普段人は外からの刺激によって少しずつ変化をしているのだが、それを意識することは結構少ないように思う。

しかし、怪談を聞いたとき、人は嫌でも自分の変化に気が付くこととなる。
(僕は怖がりなので特に)
普段は何も感じないところに何かの存在を感じる。
賑やかな街の隙間の静寂を感じる。
風が肌を撫でるのを感じる。
普段意識に上らない小さな変化を感じる。

そしてシャンプーをしている時に視線を感じるのである。
ぜひ読んでいる方も後ろから向けられている視線に早く気づいてあげて欲しい。

P.S.
「科学的な存在」というのは、「科学的な手法によって存在が確認できるもの」が「存在する」となる、科学的な定義によるものである。
おそらく幽霊というのは存在の科学的な証明が出来ないだろうし、将来的にされることもないと思う。
だから科学的に幽霊は存在しないのだが、それでも幽霊の存在を信ずるのは、僕の非科学的な部分への信仰であるし、また、様々な事象の複合が幽霊を存在たらしめることもあると思っているからである。

2018年2月21日水曜日

眠気スパイラル

僕は眠気に弱い。
なんというか眠くなってくると、何も手につかなくなる。
「根性がない」と言われればそれまでなのだが、何より睡眠を優先させてしまう傾向がある。

テスト前などに「眠いけど勉強しなくちゃ…」となった時、ちゃんと勉強出来た試しがない。
何かと理由をつけ(一夜漬けが本当の勉学と言えるだろうか、健康を損ねてまで単位という虚像を得ることになんの意味があるだろうか、etc,,,)、早々と寝てしまう。
そういう時に限っていつもより早く寝てしまうことすらある気がする。
(たっぷり寝て頭を働かせよう、などと考えるのだ)

かと思えば、本やらゲームやらアニメやらに熱中して日を越えて夜更かしをする。
こういう時は不思議と眠気をそれほど感じない。
やはりやる気と眠気には中々に深い関係性があるようだ。

そうして「目下の好きな事」に睡眠時間を削られると、「嫌いではないが多少気合がいる事」へ大きなダメージが加わることになる。
夜更かしした次の日など、朝に目覚められるはずもない。
大体、睡眠不足の朝に起きるにはいつも以上に強い気合いが必要なのだ。
しかし、睡眠不足の状態では頭から気合いというものがすっぽりと抜け落ちている。
負の相乗効果により、朝から諸々の用事に合わせて行動できるはずもない。

昼は昼で頭が働かず、しかも眠気に襲われ、首はししおどしの如く揺れ動く。
そうして一日にこなすべき諸々がこなせなかった結果、ストレスを溜める。
ストレスを発散しようとゲームやらアニメやらに熱中する。
すると不思議と寝るのが遅くなる。

こと大学生においては睡眠喪失スパイラルに陥りやすい。
睡眠不足と自己嫌悪的ストレスは思考能力を低下させ、スパイラルから抜け出すのは困難を極めるのである。
(また夜方向への生活時間のシフトは医学的にも心を病みやすいらしい)

「朝に頑張って起きる」というのがスパイラルからの抜け方であるが、それが出来れば全国数十万(?)の大学生は苦労しないのだ。
どうしても行かなければならない予定を朝に入れる、という手もあるが、下手をするとヤバい事になる。そして目覚められたとしても、その予定への殺意が凄い事になる。気をつけて欲しい。

という文章を書いている僕は睡眠不足であるので、ここで筆を置いて布団にダイブしたい。

2018年2月19日月曜日

はじめての将棋中継観覧

藤井五段が朝日の将棋大会で優勝された。
これによって六段昇格が決まったらしく、五段だった時期は二十日もなかったそうな。
新星の活躍は喜ばしいものである。

僕は将棋が指せる訳ではないのだが、ふと藤井五段(当時)の棋戦中継を見てみようとAbemaTVを開いたら、そのまま2時間丸々決勝戦を見てしまった。

一手ごとに解説役の棋士の方が詳しく説明をしてくれるので、半可者の僕でも楽しめる。

決勝戦は藤井五段が終始攻めであったが、それでいて守りは固く堅実であった。

序盤は攻めの姿勢を見せつつ、お互いに陣形を整えていく。
下手に攻め込めば逆襲を受けるし、かと言って攻める準備をしなければ、相手は悠々と攻撃の手を進めてくる。

プロの対局を見るのは初めてだったが、「攻守のバランス」というのを強く感じた。
お互いに僅かでも隙を見せれば斬りかかられるような、そんな緊張感が伝わってきて、見ているこっちも自然と背筋が伸びる。
(それは心持ちの話で、実際は布団に包まりながら見ていた)

お互いに隙を見せぬように立ち回るのだが、先手の藤井五段が先に切りかかっていく。
後手の広瀬八段はその切先を交わしながら、反撃の楔を打ち込んでいく。
しかし、その反撃の手に固すぎる手で返す藤井五段。

日本中から注目され、果てしないプレッシャーがかかる中での試合とは思えない落ち着いた手で、反撃の芽を先に潰しておいたかと思えば、相手の刃が近づくのに臆せずに斬りかかり続ける。
そんな度胸溢れる指し筋で、見事藤井五段が勝利を収めた。
(僕も布団の中で歓声をあげた)

あまりにも将棋中継が面白かったので、AbemaTVに登録しようか迷っているところである。
もし「将棋のルールは知っているけど、試合はちょっと」という人がいたら、ぜひ将棋中継を見て貰いたい。解説の棋士の方への好みもあると思うが、若い人の方が軽妙で良いかもしれない。


P.S.
久しぶりに小学校からの友達と将棋を指してみたが、攻め急いだせいで終盤はずっと逃げ惑っていた。バランスが難しい。

2018年2月18日日曜日

昨日見た夢の話

電車が走っている。
僕は電車に乗っている。
何か理由は分からないが、早く家に帰りたかった。
あまり遅くなると家族も心配する、そんな気がした。

ふと窓の外を見ると家々が立ち並んでいるのが見える。

おかしい。

僕は地下鉄に乗ったはずだ。
僕の家には地下鉄でしか帰れない。

しかし気がつくと電車は地上を走っている。
なんだか前もこんな事があった気がする。

ここはどこなんだろう。どこで間違えた…いや、とにかく降りなければ。
そう思って次の駅で電車を降りた。
路線図を見てみるも、皆目見当もつかない。
少なくとも最寄駅は看板のどこにも見当たらなかった。

仕方がない、誰かに聞こう。
駅員室に向かう。
改札の横の駅員室にはセーラー服を着た二人の女子高生が立っていた。
どうやらこの駅の駅員は女子高生らしい。

ここはどこなのか。何線に乗ってしまったのか。
色々と聞いてみるが彼女たちの返答は要領を得ない。
しかし自宅の最寄駅の名前を出すと、二人は急に笑い出した。
二人によればこの路線では僕の家には帰れないらしい。
どこで間違えたのか分からないが帰れないらしいのだ。
「道路を真っ直ぐ行くと地下鉄の入口がある」らしい。
そこからは一本だと教わった。
僕は礼を言って見知らぬ駅を去る。

真っ直ぐ進んでいたはずだが、気がつくとどこかの学校の中にいた。
建物の中ではない。敷地内だ。
それでも真っ直ぐ進み続ける。
早く帰りたい。

すると、ここの生徒たちなのだろう。
制服を着た若い男女が壁際によって何やら騒いでいる。
彼らの見る方向は僕が進むべき方向で、自然と僕もそちらを向く。
女装の列だ。
女装をした男子学生が列になってこちらへ歩いてくる。
それを見て壁際の学生達が盛り上がる。
列の最後から、がたいの良い男が(女装して)堂々と歩いてくる。
学生達は口々に「本物、本物」と叫んで彼を迎え入れる。

僕は彼らを尻目に先に進んだ。
途中で不良風の学生に捕まりそうになったが、振り切って逃げた。
学校の門が見える。
ようやく出られそうだ。

そこは古い町だった。
町は夕方で古びた家々の間を自転車が走って行く。
一体地下鉄の入口はどこにあるんだろう。

団地の周りにいた主婦に声をかける。
訝しげな主婦たちに地下鉄の場所を聞いたが、「越してきたばかり」と言って教えてもらえなかった。

公園に行くと、自転車に乗った小学生がやってきた。
「地下鉄の入口だろ、あれはゴミ屋敷の中にあるんだぜ」
彼に案内してもらい、ゴミ屋敷を目指すことになった。
公園の周りにはパトカーが停まっていて、警官が聞き込みをしている。
「パズル事件の話が出来たらいいんだけど」
少年はそう言って残念そうにしていた。


ここから僕はゴミ屋敷の中を探検することになったのだが、そこはちょっとばかりホラーで思い出したくないのでここで筆を置く。
夕焼けの町は綺麗でとても恐ろしかった。
子供の頃に歩いた夕暮れの町に似ていた。
ちょっと路地に入ったりしたら、もう戻ってこれないような気がした。
そんな夕暮れ町に似ていた。


2018年2月15日木曜日

修論発表会

今日は同期の修論発表・審査会だった。
残念ながら(?)僕が修論を書けるのはもう数年を要する。

守秘義務の誓約書にサインをしたので研究内容については言及できない。
もしバラしてしまったら、僕の体は実験に使われてしまう。
たぶんそういう誓約書なのだ。

これからジャーナル投稿に向けてまとめられていくデータだ。
ジャーナル投稿しなければ研究成果が認められない。
いつでも研究を他人に取られる危険があるのだ。

だが、審査会の様子は紹介出来るのでしてみよう。

まず修論の内容を発表する。これが10分である。
「なるほど大学院生ともなると10分間で研究を紹介出来るのか」
と思われるだろうが、それが出来ないから、僕らも研究内容を理解出来ない。

それでも念入りに準備はしてきているから、背景から実験内容、結論までを早足で説明する。しかし、やはり僕らはあまり準備してきていない(事前に要旨は配られているのだが)ので、なかなか頭に入ってこない。

だが、教員にもなるとさすがである。
というか、特に教員陣は「審査」を行う必要があるからちゃんと理解しなくてはならない。
こうして質問パートに突入する。
発表時間は10分だったが、この質問パートは15分もある。

教授を中心に4名の教員が質問をしていく。
自分の研究室の学生に質問をすることが多いのだが、どちらかと言えば同じ研究室の教員から鋭い質問が飛んでくる。

いつも不思議に思うのだが、そんな根源的な質問なら、もっと前に言ってくれれば良いのではないか。わざわざ隠し持ってなくてもいい気がしてならない。

特に博士課程後期に進む学生にはキツい質問が飛んでくる。
前に立つとやはり上がるのか、質問に対する答えが質問に対する答えになっていない。

自分がいつかここに立つかどうか分からないが、まぁその時までには堂々と発表出来るだろう。甘い予想をして同期を送り出した。

2018年2月14日水曜日

ハンターは物陰に

何かに追われている気がしないか。
大学生(僕はもう違うけど)にはよくあることかもしれない。


受験を終えて大学に入ったものの、時々心に訪れる陰がある。

これで本当に良かったのだろうか。

かと言って大学を中退してがむしゃらに突き進むような夢もない。
テレビをつければいつの間にか年下になった高校球児が必死に試合をしている。
ちょっと前までずっと大人に見えた存在が年下になった事にくらくらする。

別に何か不満があるわけでもない。
バイトはキツくないし、講義も退屈過ぎるとは言わない。単位もそれなりにとっている。
サークルは楽しいし、たまに飲む友達もいる。

だけど、何かが足りない気がする。
このまま大学生活を終えて就活をして、そして就職していくのだ。
別に何か不満があるわけでもない。

ただ、何かに追われている気がする。
それは焦燥感であり、知らぬ間に何かを失っていく恐ろしさだった。
自分が今決めた選択肢はこれで正解だろうか。
もしかしたら今しか出来ないことがあるんじゃないか。

ふとSNSを見ると中学の頃の友達が出てくる。
子供を抱いて笑顔でバーベキューなんかしている。
勉強が出来るやつじゃなかった。どこかで馬鹿にしていたかもしれない。
ただそこにいる友達はずっと大人に見えた。

別に何か不満があるわけでもない。
悩みだとかなんだとか、そんな事を言うつもりもない。
だってそれはあまりにも贅沢というものではないか。

そういえば同じ学科のあいつ。
最近あんまり絡んでないけど、よく図書館にいるらしい。
こないだ研究室にまで見学に行って教授と話したりしたらしい。
どうも頑張っちゃってさ。

後ろをふいに振り向く。
誰もいない。
ただ一瞬そこに自分の顔が見えた気がした。

2018年2月13日火曜日

辞書のようなもの

[名]ジャネイロ(じゃねいろ)
ブログを書いている人。
愚にもつかない文章をこねくり回しては読む人の貴重な時間を消費させ、日本経済に打撃を与えようと画策している。

[名]ジャネ色(じゃねいろ)
ジャネイロの色。
冬場は茶。夏場は白。秋服はあまり持っていない。

[名]ジャ音色(じゃねいろ)
ジャネイロの音色。主にマンドリンから発せられる。
音色よりも音量に気を取られているのであまり綺麗な音ではない。
(類 : 邪音色)

[名]ジャイロ(じゃいろ)
松坂大輔が投げると言われる球。
ダルビッシュ曰く存在しない。

[名]ジャイ口(じゃいぐち)
剛田武の口。武は料理が下手だが味覚が壊れているかは不明。

[名]シャケ口(しゃけぐち)
シャケ(=サケ)の口。曲がっている。

[名]シャケ買い(しゃけがい)
サーモンの状態だけを見て寿司皿を買うこと。
マグロもよく見た方がいい。黒い場合は古い。

[名]シャケ喰い(しゃけぐい)
回転寿司でサーモンばかり食べる人。
サーモン、焼きサーモン、サーモンサラダ乗せをループする。

[名]ヤケ喰い(やけぐい)
普段に比べてやけに食べる時。

[名]ヤケ杭(やけくい)
焼けた杭。出る杭は打たれるが、出すぎると見せしめに焼かれる。

[名]焼けにくい(やけにくい)
全然火が通らない状態。バーベキューの玉ねぎ。
(用法 : 隣の杭は焼けにくい杭だ)

[名]焼けやすい(やけやすい)
すぐに焦げる状態。バーベキューの玉ねぎの表面。

[名]溶けやすい(とけやすい)
バーベキューのホルモン。

[名]時計安い(とけいやすい)
フリーマーケットの時計は安い。
特に粗品などで貰える懐中電灯付きの時計は100円で買える。

[名]時計水(とけいすい)
体内時計を変えられるドリンク。
22世紀のマツモトキヨシで買える。
僕は三連休で最近生活リズムが乱れたので夜用時計水を飲んで寝ます。

2018年2月12日月曜日

進化の話をしよう

先日に続き生物学の話をしたいと思う。
特に「進化」というテーマでは主義主張に個人差があるが、まぁ本流からはそんなに離れてないと思うので、お付き合い願いたい。

さて「進化」とはなんだろうか。
簡単にいうと「ある生き物」と「その子孫」で特徴が変わっていた。
この「変化」が「進化」である。
昔は宗教的な背景もあり、「進化=進歩」と考えられていた時代もあるが、現在では「進化=変化」である。

ではついでに「退化」はどうか。
「退化も進化である」と聞いたことがある人もいるかもしれない。
「退化」とは「体の一部分がなくなる変化」である。
つまり進化の一つだ。
ではなぜ変化が起こるのだろうか。

僕とあなたは違う。
そこら辺で見かけるハトも二匹をよく見比べると色々と違いがある。
こういう違いは何が原因だろうか。

生物の体の設計図が「DNA」である。
僕らの体はこの設計図に基づいて作られている。
僕らの両親もそれぞれ別の設計図から出来ていて、二人の設計図から僕らの設計図が作られる。だから僕らは両親に半分くらいずつ似ている。

僕らの体を作る設計図は実は変化する。
一番影響が大きいのは、親から設計図をもらう時だ。
この時、設計図の書き間違いが起こることがある。
この書き間違いが「突然変異」である。

この突然変異は全然意味がないこともあるし、ものすごく大きな変化になることもある。
例えば一つの突然変異で花の色が赤から白になったりする。

こんな風に書き間違いがたくさん起こるから、親と子供は少し違うし、親と孫はもっと違うし、親と孫の孫の孫はもっともっともっと違うわけだ。

こうして「変化」が起こるのだが、実はそれはなかなか残らない。
例えば突然変異によって寿命がとても短くなるかもしれない。
子供を作る前に死んでしまったら、「寿命が短い」という「変化」はそこで終わりだ。
急に真っ青なハトが生まれるかもしれない。
でも「真っ青なハト」がハト界で全然モテなかったら、子供を作れない。
「真っ青」という変化もここまでのようだ。

つまり「変化」は基本的に邪魔をしてくる。
でもその中で邪魔をしない変化もある。
「真っ青なハト」が普通のハトと同じくらいモテるなら、真っ青なハトの子供が産まれて、孫もきっと真っ青だろう(実はハトは色が見分けられないからたぶんそうなる)
でもそんなに数は増えない。
せいぜい「青ハト一族」が細々と暮らしていくぐらいだ。

さて「邪魔をする変化」「邪魔をしない変化」を考えた。
最後は「役に立つ変化」だ。
もしかすると「真っ青なハト」が無茶苦茶にモテモテになるかもしれない。
普通のハトのオスが1匹のメスとしか子供を作れないのに、青ハトはモテモテだから10匹のメスと子供が残せるとしよう。
そうしたら、普通のハトの10倍、青ハトの子供が増えることになる。
その子供も青かったら、どんどん青いハトは増えて、今度は普通のハトは子供すら作れなくなるかもしれない。
数年後、その場所には青いハトしかいなくなってしまうだろう。

これが「残る変化」であり、「ザ・進化」という進化だ。

「メスにモテる」以外でも、「エサがいっぱい手に入る」とか「寒さに強い」とか、「子供をたくさん残せる変化」であれば、それは「残る変化」になるのだ。

ちょっと長くなったので今日はここまでにしておく。
「進化」は僕が一番好きなテーマなので、また簡単に説明していきたい。

2018年2月8日木曜日

生物時計の話をしよう

ここ数日と昔の話ばかりしていてジジイだと思われそうなので、せっかくだし今やっている研究の話をする。

2017年のノーベル医学生理学賞に選ばれた科学者をご存知だろうか。
彼らの功績、それは「時計遺伝子の発見」である。

僕らは概日リズム(サーカディアンリズム)というものに従って生きている。
難しい言葉に聞こえるが、つまり「朝に起きて、夜に寝る」というようなリズムである。
暗闇の中で生活したとしても、生活リズムは約一日に保たれる。
そのため、生物は光に頼らなくても約一日のリズムを体の中で「測っている」ことが分かる。体の中に時計があるのである。

この「約一日」というのを英語で「サーカディアン・リズム」、日本語では概そ(おおよそ)を用いて「概日リズム」と呼んでいるのである。
そして体の中で一日の長さを測っている時計を「生物時計」と呼ぶのだ。

ある研究者がハエを飼育していた。
ハエは飼いやすいし、すぐに卵を生むので遺伝の研究にはよく用いられる。
何世代もハエを飼育していくと、突然変異を起こす個体がちらほら出てくる。

ハエにもリズムがある、というと不思議に思われるかもしれないが、ハエも夜にはあまり運動をしなくなる。これが僕らの「睡眠」に当たるとする。

さて、ハエも真っ暗な場所で飼育すると、人間などと同じように約一日のリズムで生活をする。ところが、飼育していたハエの中に、そのリズムがめちゃくちゃになっている個体がいた。

そのハエを育てて増やし、生活リズムがめちゃくちゃなハエの系統を作った。
まるで大学生のようである。

ここでさっき言った話を思い出して欲しい。
「生物は体の中に時計を持っている」と言ったが、では何がその時計として働いているかを調べるにはどうすればよいだろうか?
そう、リズムがめちゃくちゃなハエを調べ、「何が壊れているか」を調べれば良い。
その壊れているものが、「時計の部品」なのだ。
(こうやって突然変異個体から原因の遺伝子を探す方法をフォワード・ジェネティクスという)

そうして生活リズムがめちゃくちゃなハエを調べた結果、一つの遺伝子が壊れていることが発見された。このハエがperiod(期間)と呼ばれていたため、この遺伝子をPeriod(Per)と呼ぶことにした。
この遺伝子を発見した研究者が今回のノーベル賞受賞者である。


さて、今では更に幾つか遺伝子が見つかり「根幹」の部分が明らかになっている。
哺乳類ではPER(ピリオド)、CRY(クリプトクローム)、CLOCK(クロック)、BMAL1(ビーマルワン)の四つが根幹をなしている。

BMAL1とCLOCKが増える、量が増えてくるとPERとCRYが遅れて増える。
PERとCRYはBMAL1とCLOCKが増えるのを止める。
するとBMAL1とCLOCKの量が減るのでPERとCRYも増えなくなる。
するとまたBMAL1とCLOCKが増え始める。

このループが約24時間なのだ。
それぞれのタンパク質は他の色々なタンパク質が増えるのを助けたり邪魔したりする。
これによって体全体が24時間周期で変動しているのである。

僕の研究は詳しくは言えない(?)が、このBMAL1の機能について調べている。
というか調べていく予定だ。調べられたらいいなぁ……

また時計の話で面白い続報があれば紹介するかもしれない。
続報を待て!

2018年2月7日水曜日

本との出会い(幼少編 後編)

怪談ブームで多くの怪談本が出たと前回言った。
その中でも小学生たちが揃って読んでいたのが「学校の怪談シリーズ」である。
学校の怪談のシリーズを名乗る本の中に異色の存在があった。

ハニ太郎シリーズである。
どこが怪談なのかは全く分からないが、ナンセンスと下品を極めたような漫画である。

主人公の家に突如やってきたはにわ。
傲慢なはにわの機嫌を損ねるたびに、はにわビームでこんにゃくにされる家族。
なぜかコンビニでバイトして廃棄の弁当を取り合う二宮金次郎。
説明していて意味の分からなさに頭が痛くなるが、どういうわけかこの漫画が図書館に全館揃っていたのである。

つまりは僕の非教育漫画へのスタートラインはハニ太郎なのである。
大いにスタートダッシュを間違えた気がしてならない。
フライングに近い。反則である。

まぁそんなわけで漫画へのスタートを切ってみると、実にこの漫画というやつが面白い。
区の図書館には寄付なのんか何なのか、いくらか少年漫画少女漫画がならんでいた。
こうなると片っ端から読む以外はない。

とりあえず『落第忍者 乱太郎』を読み(アニメでは『忍たま乱太郎』である。落第は使えないらしい)、『ちびまる子ちゃん』を読み、『らんま1/2』を読み、と若干世代が上の漫画を読み漁ることとなった。この辺りから既にジェネレーションに断層が生まれ始めていた。

それでもいわゆる『ジャンプ』などの雑誌は中学生が読む漫画と心得ていたので、読むことはなかった。銭湯で風呂上りに瓶チェリオを飲みながら読む程度である。
隠れながら『いちご100%』を読んでいた。

その他はみんなと同じように『コロコロコミック』で『コロッケ』や『でんじゃらすじーさん』を読んでいく。
前に紹介したゲーム『ジャックxダクスター』もコロコロで漫画が連載していたのだが、多分知っている人はいない気がする。割と面白かった。

ここまで書いて、「これは漫画との出会いではないのか?」と思ったので、当時好きだった小説について語りたい。

『ハリー・ポッター』はちょうど時期がかぶっていたので全部読んだ。
『ダレン・シャン』『デルトラクエスト』も読んではいたが、好きだった女の子が読んでいたから読んでいただけで、別にそんなに好きというわけでもなかった。
そういった系列では『バーティミアス』が一番好きだった。映画化して欲しい(どうやら話はあったが実現しなかった模様)

その他に『怪人二十面相』『怪盗ルパン』『ずっこけ三人組』『シャーロック・ホームズ』など図書室の定番本はとりあえず読んだ。
あと、学校の図書室にあった数少ない漫画として『はだしのゲン』も読んだ。

鬼太郎が変な薬を打たれて大海獣になる漫画?も記憶に残っている。
そのシリーズで、人をさらって魂を抜いて、ひとだまの天ぷらを作るレストランの話が好きだった。

僕が通っていた公文式にも児童書が幾らかおいてあり、そこに『西遊記』『ながいながいペンギンの話』や『ちびっこ吸血鬼』があった。吸血鬼の妹が可愛くて大好きだったのを覚えている。

まだまだ語り足りないのだが、書ききれないので、ここで筆をおく。
また、思い出したり読み返したりしたときは何か記事として書きたいと思う。


成長した今、図書館や書店で児童書の棚に立つことは少なくなってしまったかもしれないが、今一度そこに立ってみて欲しい。
きっと色々な思い出が本の思い出と共に浮かんでくると思う。


P.S.
「はやみねかおる」については今度まとめようと思っている。
待っていてほしい。

2018年2月6日火曜日

本との出会い(幼少編 前編)

最近、「文化資本」という言葉をよく聞く。
育った環境、触れてきたものが、その人の文化的資本として蓄積し、ひいては後々の社会的地位などにも影響を与えるらしい。

あまり文化人としての姿を見せぬ僕であるが(むしろ野蛮人のようなプリミティブな行動が目につくが)、小さい頃に本に触れる機会が多かった。読書を趣味として持てたのは幸運なことだと思う。

しかし、読書を趣味として持った現在だからそう思うだけで、運動を趣味として確立したパラレルワールドの僕(パラレルジャネイロ)は読書習慣があろうがなかろうが気にしないかもしれない。
(現在の僕は運動の習慣を身につけたかったと思っている)

本に触れる体験であるが、自分で本を読めるようになるまでは、母親に声に出して読んでもらうしかなかった。図書館(改装される前の旧北図書館)に行っては絵本を借りてきて読んでもらっていた。
『からすのパン屋さん』『はらぺこあおむし』『ばばばあちゃん』など絵本は今でも子供たちに読まれている作品が多い。
(絵本を選ぶのは子供ではなく親だ、とキングコング西野も言っていた)

人間は不思議なもので、いつの間にか自分で声に出しながら本が読めるようになる。
覚えていないかもしれないが、みんな最初は音読しながら出なければ絵本を読めなかったのだ(たぶん)。文字を音に変えるワンステップが必要なことが、人が文化の発展で文字を獲得したということを確からしくする。本能的には文字を認識することが出来ないのだろう。

今度はいつの間にか声に出さなくても本が読めるようになる。
本を読んでいるといいことがある。親や幼稚園の先生、ひいては友達の親にまで褒めてもらえるのだ。「黙読できるのー、すごいねー」なんて褒めてもらえるから、「僕はすごいんだぞ」と本を読む。承認欲求というやつだ。
そのうち「親が好まないような」本を読むほうが楽しいと気がついていくのだが。

しかし、あまり親は本を買ってくれなかったように思う。
ただ、僕の通っていた幼稚園には小さいながらもちゃんとした図書室があり、そこには図書室専門の保育士さんもいた。
そのため、何かにつけてはそこに通って絵本やら図鑑などを読んでいた気がする。
しかし、幼稚園のことなので記憶は曖昧だ。
(おもちゃのブロックを蹴り飛ばしてガラス窓を割ったことは鮮明に覚えている)

区の図書館にもよく連れて行ってもらった。
絵本の次はゲームブックを読むのにはまった。
「にゃんたん」や「ねこ丸」のシリーズを読み漁った。


にゃんたんやねこ丸を知らないと言う人はよもやおるまい。
「え?ゲームブックってなに?アプリ?」という人は悲しくなるから読み飛ばして欲しい。

さて、ゲームブックに満足すると、次は教育漫画を読むようになる。
やはり子供心に小説よりも絵がある方がとっつきやすいのだ。

そこで『まんが世界ふしぎ物語』を読むことになる。
これは本当に面白くてシリーズを色々と読むのだが、人気なのか借りられていることが多くて、結構飛び飛びで読んだ。そのせいか内容をあまり覚えていない。
教育漫画から少年漫画へすぐ移行する、とは中々ならなかった。
親もあまり漫画に対して好ましい印象を持っていなかったし、僕には兄などの少し上の年の子供との付き合いがなかったので移行には結構時間がかかった。

結構文章が読めるようになってくると、簡単な児童向け小説も読めるようになってくる。
『はれときどきぶた』とか『ふしぎなかぎばあさん』とかである。
知らない人は調べてくれ。はれぶたはアニメも見ていた。

その中でも僕がはまったのが『地獄堂霊界通信』である。
作者は『妖怪アパートの幽雅な日常』の香月日輪。


表紙からもびんびん伝わってくるのだが、子供向けとは思えないほど怖い。
尋常じゃなく怖い。座敷牢とか出てくる。怖い。
しかし、それにも増して主人公の三人組がかっこいいので、ワクワクする。

当時、世の中は空前の(?)怪談ブーム。
『トイレの花子さん』をはじめ、『学校の怪談』しかり『ぬ~べ~』しかり、僕が過ごした幼稚園~小学校の間は怪談を取り扱った作品が多かった。
『怪談レストラン』とかもこの流れな気がする。

その怪談ブームによって僕はついに「教育向けでない」漫画に手を出していくのだった。
(後半へ続く)

2018年2月5日月曜日

本との出会い(中高編)

図書館というのは良いものである。
静謐な空間にいると、世間の波から逃れてひと時の安らぎを得られる。
気がする。

僕は中高6年間と男子校に通っていたのだが、年に一度くらいは励んで図書館に通う時期があるものだ。学校なので図書室と呼ぶことにする。
「よーし、文学少年を目指すぞー」と思って昼休みなどに足しげく図書室に通ってみるのだが、大体1か月とたたずに飽きて行かなくなる。これを約6セットである。

他の学校にもいるのか分からないが、図書室には司書さんが3人ほどいて、しばらく通うと顔を覚えられた。延滞があると気まずくてなかなか行きづらい。
その結果、より延滞を重ねてしまうのだ。難儀。

うちの学校の図書館であるが、どうも並べてある本がおかしかった。
いわゆるベストセラーやロングセラーはとりあえず置いてある。
男子校の学生が大好きなライトノベルも多少だが置いてある。
(『僕にお月様を見せないで』は僕も読んだ。なつかしの阿智太郎である)

本学の学生は変わり者や変わり者気取り(僕はこっち)が多かった。
そういった者たちほど本補充のリクエストを出す。
それが独特な並びの一因であろう。
実際、僕も寺門ジモンのグルメ本を何冊か入れてもらった。
高校生はいつも腹を空かしているのだ。

男子校だからか、やはり科学やパソコン系の本が多かった。
しかし、棚を変えると、明らかにOL向けの美容の本や星占いの本などが並んでいたりする。
OLがリクエストを出したか、「うちの学校のOLに是非読んでもらおう」と学校に導入されたかどちられであろう。しかし本学にはOLはいないはずだ。第一、女生徒もいない。

「男にも女性向けの知識を」というのは分からないでもないが、それにしては軽薄な本が並んでいる。これが俗に言う「OLの謎」である。

一方で、図書室の隅には僕が好きな棚があった。
そこには大判の写真集などが立ち並んでいる。
「廃墟写真集」や「工場写真集」などを借りてよく読んだものだ。

考えてみれば、大して小説も借りていなかったのだから、文学少年を目指すも何もあったものではない。
当時の僕には「人と違う面白い人になるには、人が読まない本を読むべきだ」という確固たる信念があり、すでに中二病からにわかサブカルクソ人間へ移行する兆しがあったのかもしれない。

実際、図書室の本から多感な時期の少年は色々な影響を受けた(悪影響とは限らない)

奈須きのこ『空の境界』を読んだ。「活人形(いきにんぎょう)」を知った。
後にトーキング・ヘッズなどのアングラ系へ少し足を踏み入れるきっかけになった。

前述の廃墟写真集を読んだ。退廃的な物への郷愁に似た固執を得た。
工業的な物が自然に帰る過程に美しさを感じた。

水野仁輔の『カレーになりたい』にも図書室で出会った。
これをきっかけにカレー作りを始めた。
この本の巻末の刊行一覧でバクシーシ山下を見つけたのも覚えている。

そういえば『多肉植物辞典』や『コーラ白書』などもあった。
ハンバーガーの歴史に関する本も置いてあって熟読した。

考えると、今の自分につながる出会いが多かった。
しかし少年は、「他人と違うもの」を指向したがゆえに、「他人と違うもの」を嗜好するに至ったのだろうか。
それとも元々少年にはそういった気質があったのだろうか。

本当のところは分からない。
しかし、様々な本が置いてある図書室で世界が広がったのもまた事実なのだろう。

2018年2月4日日曜日

風のクロノア door to phantomile

あさ目がさめると
たしかに見たはずの夢が 
思い出せないことがある

その夢はいったいどこへ
行ってしまうのだろう


リングを持った少年 クロノア。
リングに宿る精霊 ヒューポー。
ある日 風の村に落ちてきた飛行船。
ここから二人の冒険が幕を開けたのだ。


プレーステーションの横スクロールアクションゲーム、「風のクロノア door to phantomile」。
クオリティが高く、どこか民族音楽の香りのするBGMで語られる事が多いがゲームとしても質が高いと思う。




アクションは移動・ジャンプとリングでの攻撃のみ。
十字キーと二つのボタンだけでクロノアを操作していく。
難易度はところどころ高め。
高度なプレイは必要ないが、ミスをするとすぐにコンティニューだ。

キャラクターは前面には出てこないものの、ストーリーや世界観を引き立てるには十分。もしかするとゲームでキャラクターの描写はそんなに重要ではないのかもしれない。
(クロノア2は少し描写が多くてもさっとしている)

ただそれでいても、プレイをしていると、クロノアの悲しさや切なさが伝わってくる。
描写がシンプルだが、とても上手なのかもしれない。

そして最後の結末は(少なくとも僕には)予想外だった。ぜひ自分の目で見て欲しい。

なお、自慢ではないが僕はクロノアのプライがやたら上手い。
見せられないのが残念だ。


【みんなが好きなゲームの話】
ちびロボ!
サルゲッチュ
ジャックxダクスター
どうぶつの森
スタートの儀式
ソーセージ・レジェンド

2018年2月3日土曜日

あむーるじゅてーむぼなむーる

名古屋にチョコの祭りが3つある。
栄三越で開催されるサロン・ドゥ・ショコラ。
栄松坂屋で開催されるショコラ・プロムナード。

そして名古屋高島屋で開催されるアムール・ドゥ・ショコラである。
今年も去年に続いてアムール・ドゥ・ショコラに美味しいチョコ(の試食)を求めて行ってきた。


しかし、いやはや物凄い人の数であった。
ショコラティエのブースがひしめき狭い通路は人の山で埋め尽くされていた。
僕が前進するたびに僕よりも階級が上の女性たちがタックルを決めてくる。
普通に歩く五倍疲れる。

トシ・ヨロイヅカやクラブ・ハリエなどは行列がすごくてとても並んでいられない。
おそらく並ぶと1時間くらいかかる。
だって列の最後尾から店が全く見えないんだもの。
しかも目玉商品は手に入らない。
手に入れるためには、数取券や整理券だからだ。
そしてそれらの券はおそらく始発で名古屋駅に来ないと手に入らない。

ここは潔く行列のあまりない店を中心に見て回る。
行列がなくてもどこも有名なお店だ。
なんか気のいいおじさんがいるなぁ、と思うと有名なパティシエだったりする。気をつけよう。

とにかく物欲しそうな顔をしながら、「へぇ、こういう商品があるんですか」「えっ、試食してもいいんですか?」とわざとらしい態度で色々と試食をいただいていく。
「回ってからまた来ます」とは言うがまた来ることはない。
これは日本人の美しい慎み深さである。

はぁ……どこの試食も美味い……
が、なかなか自分では買うことが出来ない。
どこで買っても美味しいことには違いないのだが、なんとか自分用にちょうどいいチョコが欲しい。何か買わなければただの試食魔になってしまう。

というわけで、賛否両論のチョコを購入した。
ピーカンナッツを和風のチョコでコーティングした逸品だ。
あまりに美味いのでどんどん進んでしまう。
あぁお腹が苦しい。
夜に食べ過ぎるのは心苦しい。
苦しい幸せを甘受しながら今日もカロリーを溜め込むのだ。


P.S.
ミッシェル・ブランの店員さんが全員美人だった。
あそこはいい店だ。

視線の行方

いつもと同じ道をいつもと同じくらいの時間に歩いて大学へ向かう。
そんな毎日を送っているのは僕だけではないだろう。

しかし、どうも刺激が足りなくないだろうか。
ぼーっと自動運転で自分を目的地に運べるのは楽だが、どうも飽きてしまった。
せっかくなので何か新しいことでもして、日々の繰り返しに刺激を生活に潤いを。

ちょっと駅に行くまでの道を変えてみようか。
多少の変更ならば問題ないかもしれないが、あまりに道を変えると迷いそうな気がする(僕は駅の目と鼻の先に住んでいるので問題ないが)
これで遅刻でもしたら何だか悔しい。

じゃあいつもと違う時間に出てみようか。
しかし、10分やら30分やら早く出たところで朝は朝。
いつもの時間より早く家を出るリーマンがいるだけだ。
リーマンの顔が変わってもさほど面白くない。
どうせみんな同じような顔をしているのだし。

ということで、なかなか上手く変更を加えられない皆様に一つのアドバイスをしたい。
そのために今日の記事は書かれていると言っても過言ではない。

それは「視線」である。
意識していないが、だいたいいつも同じような場所ばかり見ているのが人間だ。
前をぼーっと見ているか、うつむいて顔に陰を作っているか。
ここは視線をちょっと変えてみよう。

ではどこを向けばいいか。
僕がオススメするのは「上」である。
真上、右上、左上といったところだ。

普段歩く道を思い出して欲しい。
右上を見た時の屋根の庇を覚えているだろうか。
左上を見た時の電線のたるみに気づいてるだろうか。
真上を見た時の空の広さが目に入ったことはあるか。

意外と見えていないのが上である。

そして「普段の光景に見えていない部分がある」という実感を得られれば、自然とそういう部分を探し始めるのも人間だ。
ただの通学を宝探しに昇華する、そんな裏技である。
ワザップに投稿しておきたい。

2018年2月1日木曜日

かけ湯依存症

お風呂の醍醐味はなんだろう、とまずは考えてみて欲しい。
長湯して体の奥から温まるのも良し。
温泉ならば薬効などもあって心身ともに健やかになるかもしれない。
リラックス効果も大いに期待できるだろう。
人によっては湯上がりに飲むフルーツ牛乳かもしれない。
(いちご牛乳派はよくわからない。なぜなら僕はフルーツ牛乳派だからだ)

しかし、「入浴」という行為におけるピークはどこかと今一度考えてみて欲しい。
それは「湯船に入った瞬間」ではないだろうか。

特に冬場である。
風呂に入るために脱衣所で服を脱ぐ。
服を裏返したり袖を戻したりなどしている間にどんどん体が冷えていく。
浴室に入り、軽くかけ湯をする。
やれやれようやくだ、そんなことを考えながら湯船に浸かる。

その瞬間は宇宙である。
浴槽に入った熱い湯はまるで母なる海のように冷えた体を包み込んでいく。
自分と湯との境が曖昧になって、自分が消えていく。
あぁ自分とはなんと...なんと矮小な存在だろうか!
もはや感嘆の声をもらさずにはいられない。
僕は「はぁぁぁぁああ」と長めの息を吐く。そういう年なのだ。

とにかく、湯の塊に冷えた体が包まれる瞬間。
この瞬間こそが入浴のピークであると僕は考えている。

そんなことを考えている中で最近一つの発見をした。
体が温まったので湯船から出て体を洗う。
その日はいつものようにシャワーとはいかず、戯れに熱い湯をカランから洗面器に溜めてみた。(念の為に言っておくと、カランは風呂場の蛇口のことである。たぶん)

洗面器から湯を首筋にかける。

その時僕は大いなる発見をした。


なんと、その瞬間こそ、入浴のピークたる瞬間と瓜二つだったではないか!!

つまりは湯船から出ることで多少体の熱が放散した状態で、熱い湯を首筋にかけることにより、湯船に入った瞬間の快感を模倣することが出来る、僕はそういう発見をしたのだ。

これに気がついてからは、洗面器に湯を張って首筋にかけるという行為を必要以上にくりかえすようになってしまった。
厳密に言えば、湯船に入った瞬間よりも「包まれる」面積の少ない分、その刺激は穏やかなものである。
が、しかし首筋に限定してかけることで、感じる刺激がより鮮明なものになり、癖になる快感であるのだ。もう昔には戻れない。

もしかすると、これを繰り返すと体にあまり良くないのでは?
と若干思わなくもないが、気持ちがよいのでこれからも続けていきたい。
ばしゃー