2017年10月31日火曜日

一個飛ばし

「これをやったら通ぶれるのではないか」という手法を密かに一つ持っている。
名付けて「一個飛ばし法」である。

これは至って簡単なメソッドである。
例えば、友人が急に手首から糸を出した時を考えて欲しい。
パーフェクトにインクレディブルな一般ピーポー(パイパンピー)の皆さんは「スパイダーマンかよ!」と浅いツッコミを入れることだろう。
ここは一つ飛ばしの手法を用いて通ぶろう。
この場合、「まるでピーター・パーカーだな」が最適解である。
ついでに語調も合わせてアメリカ映画風にしてある。

このように糸→スパイダーマン→ピーター・パーカーの図式で間を飛ばすことこそが、「一個飛ばし法」の真髄である。
注意すべきは、相手との間に共通の知識があることが前提である点だ。
でないと、「まるでピーター・パーカーだな」「What???」となる危険がある。
「スパイダーマンっていうのはピーターがスパイダースーツを着た姿で……」と説明することになったら悲惨で目も当てられない。僕はよくやる。
相手はおそらく君のことを「話のつまらないクソオタク野郎」だと思うことだろう。僕もよく思われる。

この点にさえ注意すれば、この手法は最強!
マッチョマンには「クラーク・ケント」、金持ちには「ブルース・ウェイン」、ハンマーを振り回す男には「浅野忠信と共演するハリウッドスターは落ち目」と言ってやろう!!
Have a good geek life!!!!

2017年10月30日月曜日

自由

昨日、書店で開かれたイベントに参加した。
併設されたギャラリーで、当日配られた文庫本を、静かな音楽の流れる空間で読む、という趣向のイベントである。
台風が近づいできた日のことであった。僕は半分壊れた傘を差し、書店へと出向いた。
古いアパートに入り階段を登る。2階の一室にそのギャラリーはあった。
会場はこじんまりとまとまった空間で、10脚ほどの椅子が散らばって置いてある。
受付で名前を言い、「紅茶か珈琲」という質問に「珈琲」と答えた。
席は自由らしい。壁際の机、その椅子に座った。
椅子に座ると白く塗った壁で視界が埋まる。白い厚塗り。
木でできた素朴な盆の上に一冊の文庫本が置かれていた。
すぐに予定された時刻になった。本を覆っていた紙を取り去る。

『メルヒェ ン  ヘルマン ヘッセ』

ぺらり、と表紙をめくる。
どうやら幾つかの短編が載った大人向けの童話集のようだ。
最初に置かれた童話を読み始める。

『アウグスツス』

部屋には静かに音楽が流れている。
風、雨下を走る車、部屋の隅で鼻をすする男。
はじめ耳に入って来ていた音が次第に遠くへと離れていく。

アウグスツス、愛を知らぬ少年の話

何篇かの童話を読み終えた時、店員が時間を告げた。
いつの間にか一刻ほどの時間が過ぎていた。

いつぶりだろうか。「本を読むように」と命じられた、命じられてないにせよ、そう仕向けられたのは。他の雑事に気をやらず、ただ本を読むことが許され、薦められたのは。

階段を降りアパートを出る。
雨はより強さを増して地面をうち、木は風にあおられて大きく揺れていた。

2017年10月29日日曜日

仮装現実

栄は仮装した人々で溢れていた。
広場で何か催しをやっているのだろう。改札を通り抜け次から次へと面妖珍妙な一味が歩いていく。
妖怪に化ける者あり、ただフィクションに化ける者あり、顔に模様を描いただけの有象無象の魑魅魍魎あり。
あいにくの台風だというのに、僕の前を通り過ぎて行く人々は、みんながみんな笑顔であった。
ハロウィン。生者と死者の世界が混ざる日である。
死者の仮装をした人々は生気をおびていた。
そんな風景を眺めながら、生者の仮装をして日々を暮らしてゆく人々に思いを馳せた。

2017年10月28日土曜日

予測行動

体力の予測、というのが難しい。
無尽蔵な体力を持つティーンの方々には分からないかもしれないが、20も中頃になってくると、1日を予定で埋められなくなってくる。
第1、第2の大きな予定を入れると、第3の予定をこなせる可能性は大いに低くなる。
「別に予約も約束もしてないし、帰って寝るか……」となりがちである。

今日は朝から栄の丸善本店で開かれていた出版社の出店ブースを見に行くことにしていた。14時からは鶴舞図書館で名古屋ライターの大竹敏之のトークイベントもある。
これが大きなイベントである。

それに加えて、今日は朝から無性に楽器が弾きたい気分でトークイベント後に大学に顔を出したい気持ちがあった。さらに、体調が優れずに延期していた大須の銭湯にも行きたかった。

ここで一つ大きな問題が出てきた。
楽器を持って本屋には行ける。そのままトークイベントにも行けるだろう。
しかし、その二つの間に銭湯には行けるだろうか……いやロッカーには入らないだろう。
トークイベントが終わってから家に帰って楽器を取って……とすると二度手間である。

ここで僕は楽器を持って行くか行かないかで20分ほど悩み、もしトークイベントが2時間以内に終わったら家に楽器を取りに帰り、その足で大学に行こう、と決めた。
つまり楽器を持って行かずに銭湯に行くことを選んだのである。

しかし、丸善で樹林舎の本を買い、栄から大須に向かった僕を待ち受けていたのは「開店13時」という残酷な現実であった。仕方がないからたこ焼きを食べた。

鶴舞でのトークイベントは2時間と言わず1時間半で終わった。大学に行く十分な時間を得た僕は家に帰り、そのまま温かい布団でたっぷりと昼寝をした後にこのブログを書いている。

2017年10月27日金曜日

証明

「悪魔の証明」という言葉がある。
簡単に言えば「ないものを、ない、と証明することは出来ない」という意味である。
というかそれしか僕も知らないので、難しくは言えない。
「UFOはいるか!?」という話で、「〇〇というデータがあるからいるに違いない!」と言うことは出来るが、「そのデータは間違ってるからいない」とは言えない。「このデータが間違ってるだけで、いないとは限らない」と言われたら反論が出来ないからである。
だから、自然科学では(たぶん)「ある、と言えないものは、存在しない」という前提がある。だからSTAP細胞はない。あるのかもしれないが、「ない」。
データのない可能性にウェイトを載せることは許されないのだ。

それはそうと僕は数日前から体調が悪い。
熱はないが頭が重く体が気だるい「気がする」。
熱がない、というのは嬉しいが困った問題で本当に体調が悪いのか証明が出来ない。
というか自分でも確証が持てない。体調が悪い自信がない。

「もしかするとただサボりたいだけなのではないか?」

という疑問を簡単には払拭することが出来ない。
とりあえず体調が悪い気がするので2日ほど寝込んでみてから活動を始めた。
今のところ体調が悪い気が満々にするので、やはり体調が悪いのかもしれない。
その人が感じる辛さをその人の耐久で割った基準値を求める計器が欲しい。
もしくは説得力を付加するために、僕の体に発熱を望むところである。

2017年10月26日木曜日

感染

たったったっ。古いコンクリートの階段を降りる。
今日の天気のせいだろうか、青いタイル張りの壁はしっとりと湿っていた。
ホームに僕が来るのを待っていたのだろうか、降りるや否やスピーカーから音楽が流れる。
ベストタイミング。心の中で小さくガッツポーズをする。
電車が大きな体を揺らしながら暗闇から現れる。
軋んだ車輪が声をあげ、押し出された空気は風となって頬をうつ。
けたたましいブレーキと空気の抜ける音がしてドアが開いた。

僕はなるべく自分から見て「イケてる」と思う人の横に座る。
(もちろんスペースがある時は妙に詰めたりはしない)
朱に交われば赤くなるのだ。少しでもイケイケオーラを分けて欲しい。
くたびれた諸兄の横は避ける。いつかそこに行きつくのだ、まだ急がなくても良い。

そしてショートカットの素敵な女性の横に座った時、それだけでその日は良い日だった気になる。そうすれば、あとの一日の残りは消化試合だ。
消化試合をほどほどに過ごすために今日も電車に乗る。

2017年10月25日水曜日

憧れ

今は昔、子供の頃を振り返って欲しい。
具体的には小学生中学年くらいを振り返って欲しい。

その頃、冒険王ビィトや陰陽大戦記のアニメを見ていた僕らが、「高校生」の象徴として崇めていたものはなんだっただろうか。
それは「現国」である。少なくとも僕にとっては「現国」であった。

「ゲンコク」−−−なんとも甘美な響きである。
まだ若かりし日の、鼻水を袖で拭いてかぴかぴにしていた僕たちが、「国語」と呼んでいた授業を、年上の素敵な女性たちは「現国」と呼ぶのだ。
僕はそれをドラマやアニメで聞いては、まだ見ぬ高校生活に、「現国」の存在する高校生の一日に思いを馳せていたのだ。

いつか高校で現国の授業を受ける日がくるのだ。
素敵な同級生の女の子と屋上で弁当をつついたり、夜の校舎に忍び込んで校庭にミステリーサークルを描いたりする、そんな日が来るのだ。
「ゲンコク」を聞くたびに僕はそんな夢を思い描き、自分の口でその音を囁いた。

いつのまにだろうか、月日が流れていった。高校生になった僕は「現国」に出会うことが叶わなかった。それは奇しくも、「現代文」と呼ばれていた。
憧れ続けきた、夢見つづけてきた高校生活には、「現国」は存在しなかった。学校帰りにマクドナルドでポテトをシェイクにつけながら、一緒に生物の課題をやってくれる女子高生の同級生も存在しなかった。
憧れは、存在しなかった。

今は昔、高校生の頃を振り返って欲しい。
憧れの大学生活の象徴はなんであっただろうか。
僕にとって、それは「休講」であった。
そして今、憧れの社会人を象徴するものは「ボーナス」である。

僕は成長した。
ぼんやりとした憧れは、「休み」と「金」に具体化された。
しかし。しかし僕はやはりどこかに、現国を忘れてきてしまった気がする。

2017年10月24日火曜日

ポーション

諸兄におかれてはご存知かもしれないが、疲労の癒しに食事は適さないのだ。
いやしい我等は疲れただなんだと言っては揚物だの焼肉だのとを喰い散らし、余計に栄養を摂りすぎる。そして鏡の前で太り過ぎた身を嘆き、嘆き疲れてはまた喰う以外の術を知らぬ。
寝るのである。
食事は血糖値を上げる事しか出来ぬ。多少は頭の疲れが癒えるかもしれぬが、身体の疲れが癒えようか。そして必要以上の甘味を取っていないとどの口が言えようか。
身体の疲れを、頭の疲れを、神経の疲れを、心の疲れを癒すには、寝るのである。
寝ることにこそ全力を注がずしていかに生きよう。
目を閉じ、鼓動の数をつぶさに数えよ。
さすれば道は指されん。

2017年10月23日月曜日

コーヒータイム

特に好きじゃないというくせに、最近コーヒーを飲む癖が付いている。
歳を取ると飲み物で甘味を摂るのが嫌になってくる、という取るに足らない小噺を馬鹿にしていたのだが、いつの間にか飲み物で甘味を摂るのが嫌になってきた。
そんなわけなので徹底的にブラックしか口にしないのわけだが、やはりなんというか大好きというわけでもない。
ただ食後に一杯あおるとなんだか胃腸がすとんと落ちて、整頓されたような落ち着きが得られる。味覚が成長したというか、良い整腸剤を見つけた。
むしろ飲まないと何か足りなさを感じる。
つまりは日々一歩ずつカフェイン中毒に近づいていっている。

コーヒーを飲み初めて、「美味しい」コーヒーの存在はよく分からないが、ようやく「不味い」コーヒーの存在を確認・認識できるようになってきた感がある。
新しい物に触れた時に初めは何も感じないフラットなものが、いつの間にか針がふらっと好きやら嫌いやらに振れて、そうなってくると自分の中で新しいジャンルの認知がまとまり始めたようなそんな感慨を得る。

そんなことをまずまず不味くはないコーヒーを飲みつつ思った。