2017年2月4日土曜日

1次元思考


ここに一枚の紙テープがある。
長さはちょうど両手を横に広げた程度だ。

紙テープには、左手側の端に「自分の愛する人達のために自分を捨てて働く」と書いてあり、右手側の端に「穏やかに死ぬ」と書いてある。
自分はその中間点にいて、どちらに進むかを迷っている。

右手の先書いてある穏やかな死は、僕が望む最も利己的な決断だ。死は希望を失わせるのではない。希望を残したまま、不安との別れをもたらすものである。
とするならば、穏やかな死こそは最上の幸せだと自分は考えている。昔から変わらずに。

しかし、自分の死は家族や恋人を悲しませると、驕りを捨てても思われる。自分にかけた金銭の分を報いなければならないと考えるし、少なくとも親よりは長生きをしてあげたいと思う。それが最も利己的な決断とする理由である。

さて、この人生の紙テープの中心にいる僕がどちらに進むべきか、という問題であるが、これには回答がないのである。というよりも、これは問題立てが間違っていると言える。問題を二つの端でしか解決出来ないと考えることが、およそ間違いなのである。

ここに別の軸を持たせることを考えなければならないのではないか。1次元思考から2次元思考への転換である。
紙テープは一枚の大きな紙となる。紙の上を僕は自由に動ける。

二極化された解答は自分を追い込む事につながる。
紙を用意出来るようになりたい。



2017年2月2日木曜日

服が羽織れない


「認知のズレ」という言葉を最近よく聞く。
例えば「みんなに迷惑をかけているのではないか」と考えすぎてしまう。本来はそんな事はなくて悩む必要がないような事でも悩んでしまう。
これは自分と周囲とをまっすぐに認知が出来てない、つまり認知にズレが生じている、という事である。


話が変わるが、映画を見たり、小説、漫画を読んだ時にどんな感想を抱くだろうか。僕は楽しい悲しいは置いておいて「面白い」と半分の場合では感じる。
残りの半分では深い「寂しさ」を感じる。
物語はフィクションである。その道のプロが人の心を動かす面白い話を書いている。そうと分かった上でも、自分自身と比較し、自分が生きていくことの、自分の人生の退屈さを突きつけられた気分になる。

子供の頃を思い返す。
誕生日前には魔法学校からの手紙を待ち望み、将来は野球選手だストライカーだ、冒険がしたい、発明家になりたい、大きな夢を描いていた、まるで物語の主人公のような人生が待っていることに疑いはなかっただろう。

人は成長とともに、社会に属し周りと関わっていく中で、そうした期待感を縮め等身大にしていく。小さな頃に魔法少女になりたかった女の子も、いつか芸能人に憧れ、そのうち幸せな家庭が欲しくなっていくのかもしれない。

自分はどうも期待感を等身大に縮めることが出来なかった人間なのだ。普通の会社員になり定年まで働き、周りと同じように人生を送ること。それを拒絶する自分がいるのだ。

一体どんな人間になりたいのか。自分はそれが分からない。
周りと同じように、「社会人」という一般像を自然と目標に置くことがまだ出来ていないのである。

自分は「自分」を失うのがとても怖い。
ただ、その自分というものが何か分からない。
分からない何かが怖くて、滞った自分に焦っている。

自分というのは他者との関わりの中で見えてくるらしい。
自分を理解するために、組織の一員という服を羽織らなければならないらしい。ただ僕にはそれがなんとも馬鹿らしくて、愚かな事に思えてしまうのだ。