2017年2月2日木曜日

服が羽織れない


「認知のズレ」という言葉を最近よく聞く。
例えば「みんなに迷惑をかけているのではないか」と考えすぎてしまう。本来はそんな事はなくて悩む必要がないような事でも悩んでしまう。
これは自分と周囲とをまっすぐに認知が出来てない、つまり認知にズレが生じている、という事である。


話が変わるが、映画を見たり、小説、漫画を読んだ時にどんな感想を抱くだろうか。僕は楽しい悲しいは置いておいて「面白い」と半分の場合では感じる。
残りの半分では深い「寂しさ」を感じる。
物語はフィクションである。その道のプロが人の心を動かす面白い話を書いている。そうと分かった上でも、自分自身と比較し、自分が生きていくことの、自分の人生の退屈さを突きつけられた気分になる。

子供の頃を思い返す。
誕生日前には魔法学校からの手紙を待ち望み、将来は野球選手だストライカーだ、冒険がしたい、発明家になりたい、大きな夢を描いていた、まるで物語の主人公のような人生が待っていることに疑いはなかっただろう。

人は成長とともに、社会に属し周りと関わっていく中で、そうした期待感を縮め等身大にしていく。小さな頃に魔法少女になりたかった女の子も、いつか芸能人に憧れ、そのうち幸せな家庭が欲しくなっていくのかもしれない。

自分はどうも期待感を等身大に縮めることが出来なかった人間なのだ。普通の会社員になり定年まで働き、周りと同じように人生を送ること。それを拒絶する自分がいるのだ。

一体どんな人間になりたいのか。自分はそれが分からない。
周りと同じように、「社会人」という一般像を自然と目標に置くことがまだ出来ていないのである。

自分は「自分」を失うのがとても怖い。
ただ、その自分というものが何か分からない。
分からない何かが怖くて、滞った自分に焦っている。

自分というのは他者との関わりの中で見えてくるらしい。
自分を理解するために、組織の一員という服を羽織らなければならないらしい。ただ僕にはそれがなんとも馬鹿らしくて、愚かな事に思えてしまうのだ。



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