2016年11月23日水曜日

やりたくないこと

今、この瞬間、とても満ち足りていて幸せである、というのは嘘ではなく事実である。

家族との仲も良好だし、特に欲しいこともやりたい事もない。何よりもやらなければならないことがない。

自分にとって時間を縛られることは、とてつもなくストレスであり、もはや苦痛である。瞬時に胸から胃にかけて苦しくなり気分不良がもたらされる。
今日は5時で帰れると思った時に急な用事を入れられ、帰るのが遅くさせられた時などは全てを投げ出して帰るのをギリギリで踏み止まってなんとか今まで生きてきた。
それが出来ないから今仕事がないとも言える。

なぜそこまでの苦痛をもってして働かなければならないのか。「生きていけないから」なんてのは分かっている。親の脛をかじって生きていけるのにも限界がある。

しかしである。なぜ生きるために「やりたくない事」をやらなければならないのだ。それは最早、「やりたくないことをやるために生きている」のと何が違うのだ。
「仕事が終わった後の解放感」だの「山を越えた後の達成感」だのあるかもしれないが、それは「拷問の後のスープ」ではないのか。なぜたかがスープのために人生のほとんどを拷問に捧げる必要があるのか。

人はなぜ生きる。
生きるために苦痛を強いられるなら、生きる意味などあるだろうか。

ただ僕はこの平穏がずっと続いて欲しいだけなのに。

2016年11月21日月曜日

クオリア

クオリアという言葉がある。
情弱の僕がウィキペディア程度の知識で説明してみると、「その人だけの感じ方」みたいなことだ(と思う)。

僕が見ている赤色は「僕が生まれてからずっと赤色だと認識してきた色」であって、実は周りと同じ色を赤色と言っているが周りの人はこの色を、「僕が生まれてからずっとモスグリーン思ってきた色」だと感じている可能性がある。
ただ、それはその人だけにしか分からないことで、比較も出来ないので問題なく日常を送れている、というような話を聞いたことがあるかもしれない。

ところが自分というものに自信をなくした者からすると、この「その人にしか分からない感覚」というのが実に厄介なのだ。

例えば僕が体調の不良を感じたとしよう。「あぁ自分は今体調が悪いんだな、休まないといけないな」と思えればいいのだが、どうしても「僕は体調不良な気がするけれど、これは他の人にとっては体調不良でもなんでもないのではないか。ただの甘えなのではないか。」としか思えなくなってしまうのである。

つまりは自分の感覚、クオリアというものが信用できなくなってきてしまう。普通ならば、人との交流の中で自分の感覚を擦り合わせて「落としどころ」というものを見つけていくのだろうが、そうしたものをずっと避けてきて、出来ればこれからも避けたい自分としては中々に困難な問題である。

最近などでは開き直って、「わがままでもいい」と自分の感覚に身を委ねることが多いのだが、これも上手く舵を取らないと「自分は周りとは違うから仕方がない」とどこか言い訳めいた風になりそうで心配である。

今、自分が休むんでいる言い訳に「発熱」という症状を得たので、とにかく僕は寝続けてもいいのだ、と言い聞かせ床につく。