2018年2月6日火曜日

本との出会い(幼少編 前編)

最近、「文化資本」という言葉をよく聞く。
育った環境、触れてきたものが、その人の文化的資本として蓄積し、ひいては後々の社会的地位などにも影響を与えるらしい。

あまり文化人としての姿を見せぬ僕であるが(むしろ野蛮人のようなプリミティブな行動が目につくが)、小さい頃に本に触れる機会が多かった。読書を趣味として持てたのは幸運なことだと思う。

しかし、読書を趣味として持った現在だからそう思うだけで、運動を趣味として確立したパラレルワールドの僕(パラレルジャネイロ)は読書習慣があろうがなかろうが気にしないかもしれない。
(現在の僕は運動の習慣を身につけたかったと思っている)

本に触れる体験であるが、自分で本を読めるようになるまでは、母親に声に出して読んでもらうしかなかった。図書館(改装される前の旧北図書館)に行っては絵本を借りてきて読んでもらっていた。
『からすのパン屋さん』『はらぺこあおむし』『ばばばあちゃん』など絵本は今でも子供たちに読まれている作品が多い。
(絵本を選ぶのは子供ではなく親だ、とキングコング西野も言っていた)

人間は不思議なもので、いつの間にか自分で声に出しながら本が読めるようになる。
覚えていないかもしれないが、みんな最初は音読しながら出なければ絵本を読めなかったのだ(たぶん)。文字を音に変えるワンステップが必要なことが、人が文化の発展で文字を獲得したということを確からしくする。本能的には文字を認識することが出来ないのだろう。

今度はいつの間にか声に出さなくても本が読めるようになる。
本を読んでいるといいことがある。親や幼稚園の先生、ひいては友達の親にまで褒めてもらえるのだ。「黙読できるのー、すごいねー」なんて褒めてもらえるから、「僕はすごいんだぞ」と本を読む。承認欲求というやつだ。
そのうち「親が好まないような」本を読むほうが楽しいと気がついていくのだが。

しかし、あまり親は本を買ってくれなかったように思う。
ただ、僕の通っていた幼稚園には小さいながらもちゃんとした図書室があり、そこには図書室専門の保育士さんもいた。
そのため、何かにつけてはそこに通って絵本やら図鑑などを読んでいた気がする。
しかし、幼稚園のことなので記憶は曖昧だ。
(おもちゃのブロックを蹴り飛ばしてガラス窓を割ったことは鮮明に覚えている)

区の図書館にもよく連れて行ってもらった。
絵本の次はゲームブックを読むのにはまった。
「にゃんたん」や「ねこ丸」のシリーズを読み漁った。


にゃんたんやねこ丸を知らないと言う人はよもやおるまい。
「え?ゲームブックってなに?アプリ?」という人は悲しくなるから読み飛ばして欲しい。

さて、ゲームブックに満足すると、次は教育漫画を読むようになる。
やはり子供心に小説よりも絵がある方がとっつきやすいのだ。

そこで『まんが世界ふしぎ物語』を読むことになる。
これは本当に面白くてシリーズを色々と読むのだが、人気なのか借りられていることが多くて、結構飛び飛びで読んだ。そのせいか内容をあまり覚えていない。
教育漫画から少年漫画へすぐ移行する、とは中々ならなかった。
親もあまり漫画に対して好ましい印象を持っていなかったし、僕には兄などの少し上の年の子供との付き合いがなかったので移行には結構時間がかかった。

結構文章が読めるようになってくると、簡単な児童向け小説も読めるようになってくる。
『はれときどきぶた』とか『ふしぎなかぎばあさん』とかである。
知らない人は調べてくれ。はれぶたはアニメも見ていた。

その中でも僕がはまったのが『地獄堂霊界通信』である。
作者は『妖怪アパートの幽雅な日常』の香月日輪。


表紙からもびんびん伝わってくるのだが、子供向けとは思えないほど怖い。
尋常じゃなく怖い。座敷牢とか出てくる。怖い。
しかし、それにも増して主人公の三人組がかっこいいので、ワクワクする。

当時、世の中は空前の(?)怪談ブーム。
『トイレの花子さん』をはじめ、『学校の怪談』しかり『ぬ~べ~』しかり、僕が過ごした幼稚園~小学校の間は怪談を取り扱った作品が多かった。
『怪談レストラン』とかもこの流れな気がする。

その怪談ブームによって僕はついに「教育向けでない」漫画に手を出していくのだった。
(後半へ続く)

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