2017年12月6日水曜日

一番近くにいるのに見えない大切な存在

眼鏡である。
今日は眼鏡の話をするから素敵な恋愛の話を期待した恋に恋する妙齢の少年少女には読む価値がない。なので読むべきではない。
しかし、僕にとって眼鏡はなくてはならない大切な存在であるが故、僕は倫理道徳上の理由からも眼鏡に恋すべきなのかもしれない。

朝、目が覚める。
精緻に語るのであれば、けたたましい目覚ましの音で叩き起こされる。
起床して最初の感情が殺意になるのは精神衛生上良くないが、、そうしなければ起きられないので仕方がない。まぁそれはどうでもいい話である。

ぼやけた世界の中で枕元をぽんぽんする。
すると大体いつもぽんぽんするところに眼鏡が待っていてくれる。
もし、僕がぽんぽんしたところに眼鏡がなければ、僕は一日を送ることが出来ない。
食事ぐらいは出来るが、とても学業に勤しむことは出来ないだろう。
出来るもしれないが、出来ればしたくないのだ。
それほどに僕にとって眼鏡は必要不可欠な存在で、それほどに僕の視力は悪く、陸に上げられた魚程度しかない。現に口もぱくぱくしている。

最初に眼鏡をかけたのは小学五年生か六年生の頃だったと思う。
それまでも目は悪かったため、目を細めて生きていた。
そのせいで目が細くなった。これが進化というものである。
だが、流石にこれ以上目を細めると目が開かなくなるため、眼鏡をかけるにいたった。

眼鏡に慣れるのも大変だったが、僕 with 眼鏡を周りに慣れさせる方が困難に思えた。
当時の担任は「自然としていれば、周りもすぐに自然に思う」と言っていた。
しかし、慣れるまでに少しでもタイムラグがあるのが嫌なのだ。
子供にとっての一瞬は一生に等しい。
嘘である。しかし、1週間くらいには感じる重さがあったような気がする。
そして嫌々ながらも眼鏡のまま教室に行き、案の定いじられたが、それから十と数年の間、眼鏡をかけつづけて生きている。

大学の頃は眼鏡をつけたまま寝落ちしてしまう日々が続いていたので、よく眼鏡が歪んだ。
特に鼻当てのあの異様に細い金属がよく曲がった。
仕方がないので鼻当て部分がフレームと一体化した丈夫な型の眼鏡にした。
今度は鼻当ての調整が出来ないせいで眼鏡がよくずり落ちる羽目になった。
結局、今は鼻当てにシリコンパッドをつけて使っている。
これは概ね快適だが、2ヶ月くらいで剥がれてくるのでまた買ってつける。
面倒だが、快適な眼鏡との生活には欠かせないのだ。

これから僕が死ぬまでの間、毎日眼鏡をつけて暮らすとなると心配になってくる。
眼鏡が手に入らなくなったら、一体どうすればいいのだ。
具体的に言えば、僕の家の近くの眼鏡市場がなくなったら、どうやって生きていけばいいのだ。
向こう数十年分の眼鏡をストックしといたほうがいいのではないか。
そう戦々恐々としながら、僕は枕元をぽんぽんして生きている。

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