歯医者が嫌いだ。嫌いというか苦手だ。
なるべく行きたくない。やはり嫌いなのかもしれない。
ひんやりとした石の階段を登り、重いガラス戸を引いて院内に入る。
うがい水の匂いが鼻を通って脳へと染み渡って来る。歯医者の匂いだ。
脳から子供の頃から蓄積された歯医者の嫌な記憶がにじみ出てくる。
診察券と保険証を受付に座る無駄にきれいな女性に渡す。
不思議と歯科衛生士というのは無駄にきれいな女性が多い。
診察室の方から機械が歯を削る時の、気に触る摩擦音が聞こえて来る。
歯医者で与えられる痛みというのは、それ自体はそこまで大きなものではないのだ。
ただその痛みを「恐怖」というスパイスが2倍にか3倍にか大きくしてくれている。
サーカスでは仔象のときから繋いでおくことで、鎖を「絶対的なもの」と脳に覚えこませると聞いたことがある。こうすることで、巨象となろうとも鎖を違って逃げるようなことは出来ないらしい。
我々もまだ年端もゆかないうちから歯医者へ連れていかれ、口に金属の太い棒(昔は今よりも口が小さかったのにも関わらず)を突っ込まれて、好き勝手に身体を削られる恐怖を脳の奥深くへ染み込ませてきた。
まだ僕が小さい頃、一度だけ診察台から院外まで走って逃げたことがある。すぐに捕まえられ連れ戻された僕は、歯科医という恐ろしい存在にはどうしても抵抗出来ないということを思い知ったのだ。
先程とは別のきれいな女性が僕の名前を呼ぶ。
おそらくこの「歯科医院」というところは耐え難い恐怖を女性の見目の清さでカバーしようとしているのだ。そしてその試みが幾分か成功しているのは、僕が通い続けていることからも間違いない。
2017年2月4日土曜日
1次元思考
ここに一枚の紙テープがある。
長さはちょうど両手を横に広げた程度だ。
紙テープには、左手側の端に「自分の愛する人達のために自分を捨てて働く」と書いてあり、右手側の端に「穏やかに死ぬ」と書いてある。
自分はその中間点にいて、どちらに進むかを迷っている。
右手の先書いてある穏やかな死は、僕が望む最も利己的な決断だ。死は希望を失わせるのではない。希望を残したまま、不安との別れをもたらすものである。
とするならば、穏やかな死こそは最上の幸せだと自分は考えている。昔から変わらずに。
しかし、自分の死は家族や恋人を悲しませると、驕りを捨てても思われる。自分にかけた金銭の分を報いなければならないと考えるし、少なくとも親よりは長生きをしてあげたいと思う。それが最も利己的な決断とする理由である。
さて、この人生の紙テープの中心にいる僕がどちらに進むべきか、という問題であるが、これには回答がないのである。というよりも、これは問題立てが間違っていると言える。問題を二つの端でしか解決出来ないと考えることが、およそ間違いなのである。
ここに別の軸を持たせることを考えなければならないのではないか。1次元思考から2次元思考への転換である。
紙テープは一枚の大きな紙となる。紙の上を僕は自由に動ける。
二極化された解答は自分を追い込む事につながる。
紙を用意出来るようになりたい。
長さはちょうど両手を横に広げた程度だ。
紙テープには、左手側の端に「自分の愛する人達のために自分を捨てて働く」と書いてあり、右手側の端に「穏やかに死ぬ」と書いてある。
自分はその中間点にいて、どちらに進むかを迷っている。
右手の先書いてある穏やかな死は、僕が望む最も利己的な決断だ。死は希望を失わせるのではない。希望を残したまま、不安との別れをもたらすものである。
とするならば、穏やかな死こそは最上の幸せだと自分は考えている。昔から変わらずに。
しかし、自分の死は家族や恋人を悲しませると、驕りを捨てても思われる。自分にかけた金銭の分を報いなければならないと考えるし、少なくとも親よりは長生きをしてあげたいと思う。それが最も利己的な決断とする理由である。
さて、この人生の紙テープの中心にいる僕がどちらに進むべきか、という問題であるが、これには回答がないのである。というよりも、これは問題立てが間違っていると言える。問題を二つの端でしか解決出来ないと考えることが、およそ間違いなのである。
ここに別の軸を持たせることを考えなければならないのではないか。1次元思考から2次元思考への転換である。
紙テープは一枚の大きな紙となる。紙の上を僕は自由に動ける。
二極化された解答は自分を追い込む事につながる。
紙を用意出来るようになりたい。
2017年2月2日木曜日
服が羽織れない
「認知のズレ」という言葉を最近よく聞く。
例えば「みんなに迷惑をかけているのではないか」と考えすぎてしまう。本来はそんな事はなくて悩む必要がないような事でも悩んでしまう。
これは自分と周囲とをまっすぐに認知が出来てない、つまり認知にズレが生じている、という事である。
話が変わるが、映画を見たり、小説、漫画を読んだ時にどんな感想を抱くだろうか。僕は楽しい悲しいは置いておいて「面白い」と半分の場合では感じる。
残りの半分では深い「寂しさ」を感じる。
物語はフィクションである。その道のプロが人の心を動かす面白い話を書いている。そうと分かった上でも、自分自身と比較し、自分が生きていくことの、自分の人生の退屈さを突きつけられた気分になる。
子供の頃を思い返す。
誕生日前には魔法学校からの手紙を待ち望み、将来は野球選手だストライカーだ、冒険がしたい、発明家になりたい、大きな夢を描いていた、まるで物語の主人公のような人生が待っていることに疑いはなかっただろう。
人は成長とともに、社会に属し周りと関わっていく中で、そうした期待感を縮め等身大にしていく。小さな頃に魔法少女になりたかった女の子も、いつか芸能人に憧れ、そのうち幸せな家庭が欲しくなっていくのかもしれない。
自分はどうも期待感を等身大に縮めることが出来なかった人間なのだ。普通の会社員になり定年まで働き、周りと同じように人生を送ること。それを拒絶する自分がいるのだ。
一体どんな人間になりたいのか。自分はそれが分からない。
周りと同じように、「社会人」という一般像を自然と目標に置くことがまだ出来ていないのである。
自分は「自分」を失うのがとても怖い。
ただ、その自分というものが何か分からない。
分からない何かが怖くて、滞った自分に焦っている。
自分というのは他者との関わりの中で見えてくるらしい。
自分を理解するために、組織の一員という服を羽織らなければならないらしい。ただ僕にはそれがなんとも馬鹿らしくて、愚かな事に思えてしまうのだ。
例えば「みんなに迷惑をかけているのではないか」と考えすぎてしまう。本来はそんな事はなくて悩む必要がないような事でも悩んでしまう。
これは自分と周囲とをまっすぐに認知が出来てない、つまり認知にズレが生じている、という事である。
話が変わるが、映画を見たり、小説、漫画を読んだ時にどんな感想を抱くだろうか。僕は楽しい悲しいは置いておいて「面白い」と半分の場合では感じる。
残りの半分では深い「寂しさ」を感じる。
物語はフィクションである。その道のプロが人の心を動かす面白い話を書いている。そうと分かった上でも、自分自身と比較し、自分が生きていくことの、自分の人生の退屈さを突きつけられた気分になる。
子供の頃を思い返す。
誕生日前には魔法学校からの手紙を待ち望み、将来は野球選手だストライカーだ、冒険がしたい、発明家になりたい、大きな夢を描いていた、まるで物語の主人公のような人生が待っていることに疑いはなかっただろう。
人は成長とともに、社会に属し周りと関わっていく中で、そうした期待感を縮め等身大にしていく。小さな頃に魔法少女になりたかった女の子も、いつか芸能人に憧れ、そのうち幸せな家庭が欲しくなっていくのかもしれない。
自分はどうも期待感を等身大に縮めることが出来なかった人間なのだ。普通の会社員になり定年まで働き、周りと同じように人生を送ること。それを拒絶する自分がいるのだ。
一体どんな人間になりたいのか。自分はそれが分からない。
周りと同じように、「社会人」という一般像を自然と目標に置くことがまだ出来ていないのである。
自分は「自分」を失うのがとても怖い。
ただ、その自分というものが何か分からない。
分からない何かが怖くて、滞った自分に焦っている。
自分というのは他者との関わりの中で見えてくるらしい。
自分を理解するために、組織の一員という服を羽織らなければならないらしい。ただ僕にはそれがなんとも馬鹿らしくて、愚かな事に思えてしまうのだ。
2017年1月30日月曜日
決定権
前回、「自分の中でのリーダーがなかなか決まらず、国の治安がまとまらない」ということを書いた。
今でこそ国王たる自分はおどおどしているだけじゃなく、少しずつでも自分の中の勢力に「自ら」決定して援助をしていく必要があるのだと思う。
つまりは国王の権力の復興である。
今、国王の僕の言葉は国民たちに軽く扱われている。僕が「早く起きるのじゃ」と言ったところで、僕の中では「睡眠党」が利権を主張し、「指導力なき国王」はお飾りになってしまっているのである。
ここは王権復古の大号令が如く、王の力を取り戻し、国内での発言力を増していく必要がある。
「王の言葉に従えば利益がある」ということを国民に知らしめるのだ。
というわけで細々したことから自分の意思で行ってゆき、それによる旨味を享受していきたい。
そーら筋トレ筋トレ。
今でこそ国王たる自分はおどおどしているだけじゃなく、少しずつでも自分の中の勢力に「自ら」決定して援助をしていく必要があるのだと思う。
つまりは国王の権力の復興である。
今、国王の僕の言葉は国民たちに軽く扱われている。僕が「早く起きるのじゃ」と言ったところで、僕の中では「睡眠党」が利権を主張し、「指導力なき国王」はお飾りになってしまっているのである。
ここは王権復古の大号令が如く、王の力を取り戻し、国内での発言力を増していく必要がある。
「王の言葉に従えば利益がある」ということを国民に知らしめるのだ。
というわけで細々したことから自分の意思で行ってゆき、それによる旨味を享受していきたい。
そーら筋トレ筋トレ。
2017年1月25日水曜日
リーダー不在
人とは一人に見えて一人ではないのである。
というのは、「あなたには支えてくれる人がいる」ということではない。
例えばある人の目の前にケーキがある。
その時、その人は「ケーキを食べたい人」「ダイエットのために食べたくない人」で主な成分が構成されることになる。
そうじゃない人もいるかもしれないが、それはどうでもいい。
意志の強い人、というのはおそらく後者のダイエット志向の自分が、他の自分を統率することが出来る人なのだろう。
目的に合わせた自分に安定的にリーダーシップを発揮させられる人、というのが集中力があり意志の強い人となるのである。たぶん。
自分はおそらくある程度弱っている状態である、と自分自身は考えている。そんな自分の中では、様々な自分が独立を宣言したり、反対デモを起こしたり、武力行使で反乱を収めようとしたり、無権力状態になっている。
実際はそこまで酷くはないかもしれないが、とりあえず我がジャネイロ国は政治不安が広がっている。
この中で、様々な勢力が力を増したと思ったら、他の勢力に負けて弱くなったりして、なかなか国をまとめるリーダーが現れてくれないのである。
国王たる僕は「夢に向かって突き進む僕」とか「仕事にぶつかりながらも成長していく僕」とかカッコいい僕に頑張って欲しいのだが、どうも彼らはまだ勢力的にはだいぶニッチらしい。代わりに「寝てたい僕」とか「だらだらしてたい僕」はジャネイロ国民の大きな支持を受けているらしく、国王は国の未来を憂いている。
まぁそんな訳だから、僕はニッチの勢力に援助を出して彼らの頑張りに期待したいところなのである。
というわけで頑張れカッコいい僕!!
というのは、「あなたには支えてくれる人がいる」ということではない。
例えばある人の目の前にケーキがある。
その時、その人は「ケーキを食べたい人」「ダイエットのために食べたくない人」で主な成分が構成されることになる。
そうじゃない人もいるかもしれないが、それはどうでもいい。
意志の強い人、というのはおそらく後者のダイエット志向の自分が、他の自分を統率することが出来る人なのだろう。
目的に合わせた自分に安定的にリーダーシップを発揮させられる人、というのが集中力があり意志の強い人となるのである。たぶん。
自分はおそらくある程度弱っている状態である、と自分自身は考えている。そんな自分の中では、様々な自分が独立を宣言したり、反対デモを起こしたり、武力行使で反乱を収めようとしたり、無権力状態になっている。
実際はそこまで酷くはないかもしれないが、とりあえず我がジャネイロ国は政治不安が広がっている。
この中で、様々な勢力が力を増したと思ったら、他の勢力に負けて弱くなったりして、なかなか国をまとめるリーダーが現れてくれないのである。
国王たる僕は「夢に向かって突き進む僕」とか「仕事にぶつかりながらも成長していく僕」とかカッコいい僕に頑張って欲しいのだが、どうも彼らはまだ勢力的にはだいぶニッチらしい。代わりに「寝てたい僕」とか「だらだらしてたい僕」はジャネイロ国民の大きな支持を受けているらしく、国王は国の未来を憂いている。
まぁそんな訳だから、僕はニッチの勢力に援助を出して彼らの頑張りに期待したいところなのである。
というわけで頑張れカッコいい僕!!
2017年1月24日火曜日
働きたくない病
自分はいわゆる「働きたくない病」なので、働きたくないのである。
「そんなのみんな働きたくないんだよ!甘えるな!」と言われるかもしれないが、別にあなたに何かサポートをお願いした覚えはないし、働きたくないなら、どうぞ働かずにどうぞ、としか言えない。
働かなきゃいけないと思ってるから、働いてるのだろうし、働かないデメリット(金銭、機会の喪失など)も分かっているのだろう。
それを踏まえて働かないという選択肢を選ぶ人は、強固な意志を持っているか、生活に余裕があるか、僕と同じ働きたくない病だと思う。
まぁ病気であるので、治さなければいけないとは思う。
ただ、現状を言えば「まぁ治ればなぁ」という時と、「いや無理無理働きたくない、無理無理」という時で波がある。
今この記事を書いている時は後者である。
「働きたくない病」にかかると働く事のメリットよりもデメリットが大きく感じられるようになる。これは言い訳ではなく、自分の中で確かに「メリット<デメリット」を強く感じる。これにより働く事の意義が感じられなくなる。
そうした中で何かの労働(または準ずる行為)に勤しむ事になると、自分にとって役に立たない、無意味、むしろ害、の行為を行っている気分になる。
昔こんな話を聞いた。ある人に穴を掘らせる。ある程度まで大きな穴が掘れたら埋めさせる。そしてまた掘らせる。
この作業に従事した人は気が狂うそうだ。
これは刑務所で行われた拷問だそうだ。
働きたくない病で仕事をする。意義のなく思われる作業を続ける。すると精神的にひどく不安定になる。
「意義のない仕事」を続ける自分自身が「意義のない存在」に思われてくる。しかし周囲からは当然のようにそれを求められる。意義のない仕事、意義のない日々、自信は低下し、自分の存在が揺らいでいく。
意義を感じられない自分を否定しなければならないのか、それとも周りが狂っているのだろうか。周囲との中での自分が揺らいでいく。自分の中の自分、周囲の中の自分、理想の自分、現実の自分、境界線が揺らいでいく。
視界のピントがずれていく。
というわけで自分は戦略的撤退をしている訳である。
「認知のズレ」というのはうつ病などでもよく聞く原因であるが、それが一因なのかもしれない。
「社会の男というものは、たとい詰まらない仕事であっても、生きるために仕事をするものなのだ」という認知が「正常」であるのかもしれない。
そうだとしたら、自分にはそんな認知はいらないと感じる。
自分は病気であろうか?治すべきだろうか?
波底のベントスはそう考えている。
浮上はもう少し。
「そんなのみんな働きたくないんだよ!甘えるな!」と言われるかもしれないが、別にあなたに何かサポートをお願いした覚えはないし、働きたくないなら、どうぞ働かずにどうぞ、としか言えない。
働かなきゃいけないと思ってるから、働いてるのだろうし、働かないデメリット(金銭、機会の喪失など)も分かっているのだろう。
それを踏まえて働かないという選択肢を選ぶ人は、強固な意志を持っているか、生活に余裕があるか、僕と同じ働きたくない病だと思う。
まぁ病気であるので、治さなければいけないとは思う。
ただ、現状を言えば「まぁ治ればなぁ」という時と、「いや無理無理働きたくない、無理無理」という時で波がある。
今この記事を書いている時は後者である。
「働きたくない病」にかかると働く事のメリットよりもデメリットが大きく感じられるようになる。これは言い訳ではなく、自分の中で確かに「メリット<デメリット」を強く感じる。これにより働く事の意義が感じられなくなる。
そうした中で何かの労働(または準ずる行為)に勤しむ事になると、自分にとって役に立たない、無意味、むしろ害、の行為を行っている気分になる。
昔こんな話を聞いた。ある人に穴を掘らせる。ある程度まで大きな穴が掘れたら埋めさせる。そしてまた掘らせる。
この作業に従事した人は気が狂うそうだ。
これは刑務所で行われた拷問だそうだ。
働きたくない病で仕事をする。意義のなく思われる作業を続ける。すると精神的にひどく不安定になる。
「意義のない仕事」を続ける自分自身が「意義のない存在」に思われてくる。しかし周囲からは当然のようにそれを求められる。意義のない仕事、意義のない日々、自信は低下し、自分の存在が揺らいでいく。
意義を感じられない自分を否定しなければならないのか、それとも周りが狂っているのだろうか。周囲との中での自分が揺らいでいく。自分の中の自分、周囲の中の自分、理想の自分、現実の自分、境界線が揺らいでいく。
視界のピントがずれていく。
というわけで自分は戦略的撤退をしている訳である。
「認知のズレ」というのはうつ病などでもよく聞く原因であるが、それが一因なのかもしれない。
「社会の男というものは、たとい詰まらない仕事であっても、生きるために仕事をするものなのだ」という認知が「正常」であるのかもしれない。
そうだとしたら、自分にはそんな認知はいらないと感じる。
自分は病気であろうか?治すべきだろうか?
波底のベントスはそう考えている。
浮上はもう少し。
2016年11月23日水曜日
やりたくないこと
今、この瞬間、とても満ち足りていて幸せである、というのは嘘ではなく事実である。
家族との仲も良好だし、特に欲しいこともやりたい事もない。何よりもやらなければならないことがない。
自分にとって時間を縛られることは、とてつもなくストレスであり、もはや苦痛である。瞬時に胸から胃にかけて苦しくなり気分不良がもたらされる。
今日は5時で帰れると思った時に急な用事を入れられ、帰るのが遅くさせられた時などは全てを投げ出して帰るのをギリギリで踏み止まってなんとか今まで生きてきた。
それが出来ないから今仕事がないとも言える。
なぜそこまでの苦痛をもってして働かなければならないのか。「生きていけないから」なんてのは分かっている。親の脛をかじって生きていけるのにも限界がある。
しかしである。なぜ生きるために「やりたくない事」をやらなければならないのだ。それは最早、「やりたくないことをやるために生きている」のと何が違うのだ。
「仕事が終わった後の解放感」だの「山を越えた後の達成感」だのあるかもしれないが、それは「拷問の後のスープ」ではないのか。なぜたかがスープのために人生のほとんどを拷問に捧げる必要があるのか。
人はなぜ生きる。
生きるために苦痛を強いられるなら、生きる意味などあるだろうか。
ただ僕はこの平穏がずっと続いて欲しいだけなのに。
2016年11月21日月曜日
クオリア
クオリアという言葉がある。
情弱の僕がウィキペディア程度の知識で説明してみると、「その人だけの感じ方」みたいなことだ(と思う)。
僕が見ている赤色は「僕が生まれてからずっと赤色だと認識してきた色」であって、実は周りと同じ色を赤色と言っているが周りの人はこの色を、「僕が生まれてからずっとモスグリーン思ってきた色」だと感じている可能性がある。
ただ、それはその人だけにしか分からないことで、比較も出来ないので問題なく日常を送れている、というような話を聞いたことがあるかもしれない。
ところが自分というものに自信をなくした者からすると、この「その人にしか分からない感覚」というのが実に厄介なのだ。
例えば僕が体調の不良を感じたとしよう。「あぁ自分は今体調が悪いんだな、休まないといけないな」と思えればいいのだが、どうしても「僕は体調不良な気がするけれど、これは他の人にとっては体調不良でもなんでもないのではないか。ただの甘えなのではないか。」としか思えなくなってしまうのである。
つまりは自分の感覚、クオリアというものが信用できなくなってきてしまう。普通ならば、人との交流の中で自分の感覚を擦り合わせて「落としどころ」というものを見つけていくのだろうが、そうしたものをずっと避けてきて、出来ればこれからも避けたい自分としては中々に困難な問題である。
最近などでは開き直って、「わがままでもいい」と自分の感覚に身を委ねることが多いのだが、これも上手く舵を取らないと「自分は周りとは違うから仕方がない」とどこか言い訳めいた風になりそうで心配である。
今、自分が休むんでいる言い訳に「発熱」という症状を得たので、とにかく僕は寝続けてもいいのだ、と言い聞かせ床につく。
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