2017年1月24日火曜日

働きたくない病


自分はいわゆる「働きたくない病」なので、働きたくないのである。

「そんなのみんな働きたくないんだよ!甘えるな!」と言われるかもしれないが、別にあなたに何かサポートをお願いした覚えはないし、働きたくないなら、どうぞ働かずにどうぞ、としか言えない。
働かなきゃいけないと思ってるから、働いてるのだろうし、働かないデメリット(金銭、機会の喪失など)も分かっているのだろう。

それを踏まえて働かないという選択肢を選ぶ人は、強固な意志を持っているか、生活に余裕があるか、僕と同じ働きたくない病だと思う。

まぁ病気であるので、治さなければいけないとは思う。
ただ、現状を言えば「まぁ治ればなぁ」という時と、「いや無理無理働きたくない、無理無理」という時で波がある。

今この記事を書いている時は後者である。

「働きたくない病」にかかると働く事のメリットよりもデメリットが大きく感じられるようになる。これは言い訳ではなく、自分の中で確かに「メリット<デメリット」を強く感じる。これにより働く事の意義が感じられなくなる。

そうした中で何かの労働(または準ずる行為)に勤しむ事になると、自分にとって役に立たない、無意味、むしろ害、の行為を行っている気分になる。

昔こんな話を聞いた。ある人に穴を掘らせる。ある程度まで大きな穴が掘れたら埋めさせる。そしてまた掘らせる。
この作業に従事した人は気が狂うそうだ。
これは刑務所で行われた拷問だそうだ。

働きたくない病で仕事をする。意義のなく思われる作業を続ける。すると精神的にひどく不安定になる。
「意義のない仕事」を続ける自分自身が「意義のない存在」に思われてくる。しかし周囲からは当然のようにそれを求められる。意義のない仕事、意義のない日々、自信は低下し、自分の存在が揺らいでいく。
意義を感じられない自分を否定しなければならないのか、それとも周りが狂っているのだろうか。周囲との中での自分が揺らいでいく。自分の中の自分、周囲の中の自分、理想の自分、現実の自分、境界線が揺らいでいく。
視界のピントがずれていく。

というわけで自分は戦略的撤退をしている訳である。
「認知のズレ」というのはうつ病などでもよく聞く原因であるが、それが一因なのかもしれない。
「社会の男というものは、たとい詰まらない仕事であっても、生きるために仕事をするものなのだ」という認知が「正常」であるのかもしれない。
そうだとしたら、自分にはそんな認知はいらないと感じる。
自分は病気であろうか?治すべきだろうか?

波底のベントスはそう考えている。
浮上はもう少し。



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